題しらす 藤原国経朝臣
あけぬとていまはのこころつくからになといひしらぬおもひそふらむ (638)
明けぬとて今はの心つくからになど言ひ知らぬ思ひ添ふらむ
「題知らず 藤原国経朝臣
明けてしまうということでお別れの心が付くと直ぐに、なぜ言いようのない思いが添うのだろう。」
「(明け)ぬとて」の「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「とて」は、接続助詞で、原因の引用を表す。「(つく)からに」は、接続助詞で「直ちに始まる」の意を表す。「など」は、疑問の副詞。「(知ら)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(添ふ)らむ」は、助動詞で原因理由の推量を表す。
夜が明けてしまいます。今はもうお別れしなければならない時間が来ました。しかし、そう分別すると直ぐに、どうして言いようもない思いが寄り添うのでしょう。心と思いは別物なのですね。心でせねばならぬと判断しても、それを望まないためでしょうか、何とも言いようのない感情が寄り添います。そして、それをどうすること出来ないでいます。それがどんな思いかは、言葉で表せなくてもおわかりですよね。きっとあなたも私と同じ思いでしょうから。
別れに際して、心が冷静ではいられないことを相手に伝えようとしている。これは、自分への慰めであり、相手への思いやりでもあるからだ。
この歌は、前の歌から少し時間が経った場面を詠んでいる。まだ二人は共にいる。その後朝の機微・心理を細やかに捉えている。編集者は、こうした後朝の際しての歌の効用を評価したのだろう。
コメント
「夜が明けるね」と言葉にして言う事でいよいよ別れの時と決心し、自分に言い聞かせるつもりなのに、そうしようとする側から言いようのない気持ちが湧き上がってくる。何故か?本当なら片時も離れたくないのだ。(その証拠にこの歌に「別れ」の言葉はどこにも入っていないのです)私の気持ち、お分かりいただけますか、、。残して帰らねばならない人も辛いですよね。
「明けぬとて」の「とて」は、「・・・と言って」ですから、別れを決意するために自分と相手に別れを自分に言い聞かせている感じですね。なのに、心は素直に言うことを聞いてくれません。だだをこねます。それを歌にすることで慰め合っているのでしょう。
後朝って、きっと短い時間ですよね。前の歌と繋げて考えて、只でさえ短い後朝の細かい時間経過に沿った心情を追っていくことが、非常に興味深いと思いました。歌を繋げてドラマができますね。
そうですね、後朝の歌は家の戻ってからすぐに贈ります。時間が経ってしまったら、もう後朝の歌とは言えません。ならば、その時間帯は短いと言えますね。『古今和歌集』は、その間の出来事と心理を細やかに捉えています。繋げれば、ドラマが書けそうですね。紫式部は、そんな妄想少女だったのでしょう。