《葦が繁るように》

題しらす つらゆき

つのくにのなにはのあしのめもはるにしけきわかこひひとしるらめや (604)

津の国の難波の葦の目もはるに繁き我が恋人知るらめや

「題知らず 貫之
津の国の難波の葦が目も遙々と繁るような私の恋を人は知っているだろうか。」

「津の国の難波の葦の目もはるに」は「繁き」を導く序詞。「(知る)らめや」の「らめ」は、現在推量の助動詞「らむ」の已然形。「や」は、終助詞で反語・疑問を表す。
津の国の難波は、葦の多いところで有名です。そこには、目も遙々と葦の生え繁っています。私のあなたへの恋は、心にその葦のように広がり、心を覆い尽くしていきます。それが他の人とは違う私の恋の有り樣です。あなたはそれをご存じでしょうか。
作者は、自分の恋心を難波の葦にたとえている。この目の付け所にこの歌の独自性がある。それによって、自分の恋がいかに特別であるかを伝えている。敢えて「我が」と自分を強調しているのはそれを補強するためである。「知るらめや」の意味は、反語と疑問が半々である。それなのに、たぶん知らないだろうという意味合いも含んでいる。
編集者は、歌は常に新しい題材を開発すべきだと考えている。そこで、葦のようなものであっても、恋の歌になり得ることを示したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    子供の頃、小学校に通う通学路の川べりによく若芽が繁っていました。それが葦と判ったのは大人になってずっと後でした。でもその葦が大きく太くなっていた記憶はなく、、大人が刈っていたのか…
    ただの雑草との認識でしたが、恋歌の題材になるとは。。貫之が詠むと床の間に飾ってあるかと思ってしまいます。でも、この難波の葦はウチの近所のそれとはスケールが違うのでしょうけれど。

    • 山川 信一 より:

      葦は、「あし」が「悪し」に通じるため、「よし」と言い換えられることもあります。日よけなどの使う「葦簀」がそれです。しかし、実用性はあるにしても、傍から見れば単なる雑草です。それを恋の歌に仕立てたところにこの歌の価値があるのでしょう。

  2. すいわ より:

    難波の葦、よく歌に詠まれる印象があります。きっと美しい光景なのでしょう。入江に広がる葦原、一面覆い尽くされた様を相手に対する自分の心として詠む。自分の心を占めるのはあなただけ。でも、葦でその先の波立つ海は見渡せない。あなたにもこの気持ち、見えていないのでは、、。
    のののの、、貫之には申し訳ないのですが、葦原でなく蕨野に見えてしまいました。それこそぐるぐるが腕を伸ばし絡み合い、雁字搦め、身動きできない恋。ままならないものですね。

    • 山川 信一 より:

      確かに葦は歌によく読まれますね。『万葉集』にも沢山できてきます。中には、恋の歌もありますが、実景として遣われています。この歌のようなたとえではありません。そこにこの歌の工夫があるのでしょう。
      「の」の繰り返しが「雁字搦め」の「身動きできない恋」を暗示する、この鑑賞には恐れ入りました。

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