題しらす つらゆき
あきののにみたれてさけるはなのいろのちくさにものをおもふころかな (583)
秋の野に乱れて咲ける花の色の千種に物を思ふ頃かな
「題知らず 貫之
秋の野に乱れて咲いている花の色のようにいろいろ物を思う頃だなあ。」
「秋の野に乱れて咲ける花の色の」は、「千種」を導く序詞。「(咲け)る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「(頃)かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
秋の野の花には様々な色の花が咲き乱れています。なんと美しいことでしょう。よい季節になりました。なのに、私はその美しさを堪能できないでいます。と言うのも、花の様々な色を眺めていると、恋に思い乱れる私の心のようだと思ってしまうからです。これほど美しい花々を眺めても物思いに耽ってしまう今日この頃です。恋とは罪なものです。
目に見える花の色のいろいろから目に見えない心の乱れを連想させる。同時に、この物思いが恋によるものであることを暗示している。物思いと言っても、恋のそれであるから華やかさがあることを伝える。また、秋の花の色は、相手の女性の美しさも暗示している。全体としては、はっきりしたことを言わずに読み手の想像力に任せている。「はなのいろの」字余りになっている。これは、「の」の母音「オ」と「い」は母音が重なっているので許容される。一方、花の色のあまりある美しさも暗示するためでもあろう。
この歌は、秋の野の美しい様々な花の色と物思いとを結びつけている。これはおよそ似つかわしくない取り合わせである。しかし、その意外性にこそ、恋の特性が表れている。どんなに美しいものを眺めても物思いに耽ってしまうと言うのである。それを抑えた表現によって表している。編集者は、その点を評価したのだろう。
コメント
ほう!今度は 花の色 を例えに詠んだのですね。花そのものではなくて、花の色。様々な花、というより様々な花の色、という方がより鮮やかな光景がイメージされます。恋煩いの中であっても、美しいです。恋した相手も、きっととても美しい方なのでしょうね。
恋煩いのイメージを秋の花の色にたとえたところが新鮮ですね。確かに、他の煩いとは色合いが違いますから。ここに発見がありますね。
モネの点描画を見ているようです。風に揺れる千種の、とりどりな色がムーブメントとなって詠み手のさざめく心を映し出しているよう。美しい景色を前にしてもなお、私の一番の心の在処はあなたにあって、秋風に揺れる草の波立つ様子が自分の心の揺れに見えてくる、と。
われもこう千種八千種波立てば穂波に
ものをおもふころかな
「吾亦紅」と「我も恋ふ」で掛けたかったのですが、「う」と「ふ」になってしまいますね。
「モネの点描」はいい鑑賞ですね。「われもこう千種八千種波立てば穂波にものをおもふころかな」もいい歌です。仮名遣いは、現代仮名遣いにすれば問題ありません。ただ、「吾亦紅」に限定すると、「千種八千種」は、揺れのみの様子になってしまいますね。