題しらす 清原ふかやふ
むしのことこゑにたててはなかねともなみたのみこそしたになかるれ (581)
虫のごと声に立ててはなかねども涙のみこそ下に流るれ
「題知らず 清原深養父
虫のように声を立てては泣かないけれど、涙ばかりが人知れず流れるのだが・・・。」
「なかねども」の「なか」は、「鳴く」と「泣く」の意味を兼ねている。「ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形。「ども」は、接続助詞で逆接を表す。「(涙)のみこそ」の「のみ」は、副助詞で限定を表す。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にする。以下に逆接で繋げる。「流るれ」は、下二段活用の動詞「流る」の已然形。
秋になり虫が盛んに鳴いています。虫はきっと私のように悲しくて鳴いているのでしょう。私もあの虫と同様に泣いているのでわかります。もちろん、私が虫のようには声を立てることはありません。けれども、心はつらさ、悲しさでいっぱいなのです。ただ、これでは、私がいかに悲しんでいるかがわかってもらえないでしょうね。
579番の歌では、梅雨に「郭公」が鳴いていた。この歌は、秋に「虫」が鳴いている。鳴き声の効果は似ている。虫の音を聞けば、自分を意識するように仕掛けたのだ。
前の歌とは秋繋がりである。ここでは虫を登場させて、音を加えている。また、涙を人知れず流すのも恋の一場面である。編集者は、それを捉えた点を評価したのだろう。
コメント
577番も泣いていることを敢えて隠して悲しんでいることをアピールしていましたが、こちらの方が奥ゆかしいというか、力技ではない分、かえって本心が伝わるように思えます。音を立てれば振り向いてはもらえるだろう。でも、それはしない。きっとこの歌を読んだら虫の声を聞く度、私を思い出してもらえる。そして見えないものは見たくなる。誰にも知られずに流す涙、私の真心があなたにだけは見えてくるのではないか?
確かに、「春雨に濡れにし袖」はかっこつけすぎですね。ちょっと嫌みかも知れません。しかも、声を立てて泣いています。それより、虫が代わりに鳴いてくれる忍び泣きの方が控えめで、かえって心を動かしそうです。どこまで言うか、何を言わないか、心を動かすのは難しいですね。
私も、声をあげて泣くより声を立てずに(押し殺して)さめざめとなく方が、切なさや悲しさがより伝わると思います。でもそれは、私が日本人だからかも知れませんが。恋の相手が欧米人なら、やはり大袈裟に泣くのかも。
確かにそういう面もありますね。しかし、それは欧米人と日本人との対比で語るのは不正確です。本当に欧米人は大袈裟に泣くでしょうか?東洋人は大袈裟に泣かないでしょうか?そんなことはありません。たとえば、韓国人は大声を出して泣きます。日本人にしても次の歌は号泣の歌です。