題しらす 紀つらゆき
ゆめちにもつゆやおくらむよもすからかよへるそてのひちてかわかぬ (574)
夢路にも露や置くらむ終夜通へる袖の漬ちて乾かぬ
「題知らず 紀貫之
夢路にも露が置いているのだろうか。夜通し通っている袖が濡れて乾かないことだ。」
「(露)や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(置く)らむ」は、現在推量の助動詞の連体形。ここで切れる。「(通へ)る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「(乾か)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。
毎夜、夢の中であなたのところへ通っています。秋なので、その道にも露が降りているのでしょうか。夜通し通っている私の袖がぐっしょり濡れて乾かないのです。でも、これほど濡れているのは本当にそのためでしょうか。
「(夢路に)も」とあるから、季節は露の降りる秋である。作者は、その季節感を利用して、自分が恋人のところに一晩中通って、袖がぐっしょり濡れていることをイメージさせる。その上で、それが夜露のためではないかととぼけた疑問を述べる。敢えて、恋人に逢えない悲しみの涙であるとは言わない。
恋は、駆け引きである。どんなに激しい恋心を抱こうと、一方的にその感情をぶつければ、相手の心を動かせるわけではない。相手の心を動かすには、相手の思いが入り込めるくらいの少しゆとりが有った方がいい。言い過ぎてはいけない。肝心のことは、むしろ言わない方がいい。この歌は、その匙加減のお手本を示している。
コメント
夢の中、夜通し君の元へと通う道々、秋だからだろうか、夢の中でも露が降りて袖が乾くことがないのだよ(君に逢えずにこんなにも袖が濡れてしまった)。「悲しい」と言わずその気持ちを伝える。この頃から続く文化、なのですね。
でも、この歌、逢えなくて悲しいのでしょうか。男の方の都合で、何だか女の元へ通えていない言い訳のような気もして。
「君の夢の中に私は毎夜逢いに行っているのです、その証拠に通い路で濡れた袖、これは露ではなく私の涙なのですよ」と言っているようにも思えます。
言葉は、誰がどのような場面で用いるかによって、意味が変わってきます。言葉の意味を決めるのは状況です。ですから、この歌もすいわさんのおっしゃるように取れる状況はあります。「題知らず」ですから、どう意味付けるかは、読み手の楽しみとなります。そこにそう読みたい自分が表れます。
この歌を読んで572番の歌が頭をよぎりました。そんな「女」を表現して見せた貫之、夜露に濡れる袖を敢えて逢えずに悲しんでいるとは言わず歌に詠み、しかもそれは夢の中の出来事。綺麗な情景なのに何かはぐらかされたような気分になりました。貫之でなければここまで考えずに受け取っていたかもしれません。
貫之の歌は、どれも形が整っていますね。その上押しつけがましくありません。スマートでスッキしりています。助詞助動詞の使い方が上手い。歌に限らず表現とはこうありたいものですね。
夜露で袖が濡れる。きっと涙で濡れているのだろう。それほどこの恋は苦しいのだ、と読み手は想像するわけですね。
なるほど、匙加減ですか。。これも技巧ですね。言外に相手に気付かせる。
私は、恋愛においてではありませんが少々ストレートに色々表現し過ぎるところがあるらしく(母曰く)、この匙加減を見習わなくては、と改めて思いました。
同感です。私は長年いわゆる説明文を教えてきました。その表現はストレートで明快なことをよしとしました。感情よりも論理を優先しました。だから、和歌に学ぶことも多いのです。表現は、相手の何を動かすかによって様々ですね。私も、感情に訴える表現は苦手です。