題しらす つらゆき
よのなかはかくこそありけれふくかせのめにみぬひともこひしかりけり (475)
世中はかくこそありけれ吹く風の目に見ぬ人も恋しかりけり
「世の中はこのようであったのだなあ。吹く風のように目に見えない人も恋しいことだなあ。」
「かく」は、副詞で「このように」の意。その指示内容は後半にある。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にする。以下に逆接で繋ぐ。「けれ」は、詠嘆の助動詞「けり」の已然形。「吹く風の」は、「目に見ぬ」の枕詞。「(見)ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
世の中とはこういうものであったのだなあ。今そのことに改めて気が付いて驚いている。しかし、それにまだ逢ったことがない人も恋しく思う理不尽さまで含まれているとは思ってもみなかったなあ。
まず「かく」という副詞を使って読者の興味を引く。そして、「こそ~けれ」で詠嘆してみせる。後半で、「かく」の内容を明らかにしつつ、もう一度「けり」を使い詠嘆する。「けり」を二回使うことによって、詠嘆の程度を表している。これは、逢ったこともない人に恋してしまう理不尽さへの嘆きである。
「世の中」は、世の常を意味している。人は世の常の理不尽さを嘆くけれども、恋する者にとって、結局世に常とは、男女の情の理不尽さなのだと言う。「吹く風の」は、枕詞ではあるけれど、目に見えない状態をイメージ化している。また、噂に聞くという意味も暗示している。
コメント
理論派の貫之だから、の歌。平安人の常識、会ったことも無い姫君に恋心を抱く事への疑問、噂だけでその人に恋するなんて現実的でないという現代人に近い感覚で理性的に恋も捉えていたのでしょう。なのにどうだ、風の噂に聞く見たことも無いその人に心揺れるなんて、と。貫之ですらままならない、それが恋なのだと。ファウストの姿と重なりますね。
なるほど、ファウストに通じるところがありますね。それにしても、「一首の中に「けり」を二度も使うとは大胆です。『古今和歌集』が既成の概念に囚われない、いかに革新的な歌集であったかがわかります。和歌は型ではない。必要ならば、どんな表現も有り得るのだと言っているようです。
「けり」の二度使い、恋に悩み繰り返し溜め息を「はぁ、、」と漏らしている姿を思い浮かべてしまいます。
同感です。さすが貫之は大胆に言葉を使いますね。
こちらも、噂から始まった恋の歌ですね。でも始まったばかりなわけではなさそうです。いつまでも会って貰えず、片想いから進展しない?
恋する自分に戸惑っている感じですね。こんなはずはなかった。こんな理不尽なことが現実に起こるとは、いつもの自分はどこにいったのだろう。これが恋なのかと。