かくかたはにしつつありわたるに、身もいたづらになりぬべければ、つひに亡びぬべしとて、この男、「いかにせむ、わがかかる心やめたまへ」と仏神にも申しけれど、いやまさりにのみおぼえつつ、なほわりなく恋しうのみおぼえければ、陰陽師、神巫(かむなぎ)よびて、恋せじといふ祓への具、具してなむいきける。祓へけるままに、いとど悲しきこと数まさりて、ありしよりけに恋しくのみおぼえければ、
恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな
このように異常な振る舞いをし続けて(「かたはにしつつ」)ずっと過ごしている(「ありわたる」)と、身も駄目に(「いたづらに」)なってしまうので、終いに死んで(「亡び」)しまうに違いないと思って、この男は「どうしよう(「いかにせむ」)、私のこのような恋心が治まりますように。」と神仏に祈り申したけれど、いよいよ激しく(「いやまさりに」)思えるばかりで、なお訳もわからず(「わりなく」)女が恋しく思えるばかりだったので、陰陽士や神巫を呼んで、恋をしなくなる祓えの道具を持って(「具して」)河原に行った。お祓いをするとすぐに(「ままに」)、ますます(「いとど」)悲しいことが何倍にもなって(「数まさりて」)、前よりもいっそう(「けに」)女が恋しく思えるばかりだったので、
〈恋すまいと御手洗川でしたみそぎなのに、神は願いを受け入れなく終わってしまったなあ。〉
と言って河原を去ってしまった。
この歌は『古今和歌集』(恋一)に詠み人知らずとして載っている。ただ下の句が「神はうけずぞなりにけらしも」となっている。古めかしい表現なので、これを少年にふさわしい表現にして直して用いたのだろう。
男もこれではいけない何とかしなくてはと神仏にすがったのである。しかし、「お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ」という訳である。恋の病は、いつの世でも変わらない。
コメント
『その一』の勢いとは一転、自分の常軌を逸した行動に問題があると神仏に縋ってまでも恋心を収めようとしたのですね。何に変えても、と腹を括って迫っていた訳ではなく、周りの反応から初めて道に外れている事に気付き焦りを覚えたのですね。若いって切ない。感情と理性のせめぎ合い。道理は所詮人間の決めた枠、理屈でねじ伏せられる程度の恋心なら最初から悩まずに済むのでしょう。
少年にとって、恋は初めての経験でした。恋がこれほど激しいものとは、思ってもいなかったのです。
すいわさんのおっしゃるように、恋は道理とは別の原理で動いています。道理でどうなるものでもありません。
神仏にすがる姿がユーモラスでもあります。『伊勢物語』には、この種の笑いがあります。