《鏡に映る老い》

歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる きのつらゆき

ゆくとしのをしくもあるかなますかかみみるかけさへにくれぬとおもへは (342)

行く年の惜しくもあるかな増鏡見る影さへに暮れぬと思へば

「歌を天皇が献上しろと仰せられた時にお詠み申し上げた  紀貫之
行く年が惜しくもあるなあ。曇りなき鏡を見る自分の姿までもが暮れてしまうと思うので。」

「(行く年)の」は格助詞で主格を表す。「かな」は詠嘆の終助詞。ここで切れる。以下は倒置になっている。「さへ」は、副助詞で添加を表す。「(暮れ)ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「(思へ)ば」は、接続助詞で条件を表す。
大晦日に天皇から歌を献上するように命ぜられた。そこで、今の思いをそのまま詠んだ。今日は年が行ってしまうのが惜しくてならない。曇りなき鏡は、それを見ている我が身をよく映す。その姿を見るにつけ、我が身に老いの色を感じる。だからこそ、惜しくなるのだ。
行く年に我が身を重ねた感慨を詠んでいる。年が行けば、自分も一つ年を取る。だから、年が行くのが惜しい。しかし、これは、誰もが抱く思いだ。そこで、この歌では、具体的に「増鏡」を見る自分の姿を加えて、オリジナリティを出している。その様子が浮かんでくる。鏡はそれを見る自分の老いをありのままに映す。それを理由にしたことで、リアリティを出している。
この歌は、冬の巻の最後の歌であり、四季の歌の最後の歌でもある。それなりの歌でなくてはならない。そこでもう一枚、詞書によって天皇の権威を加えたのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    四季の締めくくりの歌。「をしくもあるかな」の字余りが後ろ髪引かれる思いを映すようでもあります。時間の流れは止めようもなく、鏡を見れば嘘偽りなくそれだけの年月が自分の上にも降り積もったことを悟らされる。まだここにいたい、でも留まれない口惜しさ。
    なのだけれど、、鏡は自ら映し込まなければ無のまま。対峙すればこそ惜しむ気持ちも生まれるのですよね。
    「古今和歌集」という鏡に春夏秋冬を映して来て、まだまだ四季を味わいたいところだけれど、暫しのお別れを。季節を見送ってさて、次はどんな歌に会えるでしょう。

    • 山川 信一 より:

      鏡を持ってきたところがさすがですね。鏡に映る自分を見れば、時が止めようにないことを悟らざるを得ません。四季は巡りますが、時は戻れません。ただ過ぎゆくのみです。

  2. まりりん より:

    鏡は全てを正直に映し出してしまいますね。自分の顔を映すと、見たくないものが年々増えてきて、、ぎょっとすることがあります。さらには現在の姿のみでなく、今までどのように生きてきたか、人にどのように接してきたか、などの「生き様」が加えて映し出されている気がしてなりません。「惜しく」ならない生き方をしなくては、、と日々自戒しています。

    • 山川 信一 より:

      その気持ちはよくわかります。反省は必要ですね。でも、自戒までは必要でしょうか?物事はほどほどに済ますことも必要です。人は完璧にはいかなのですから。あまり自分を責めすぎないように。

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