見送りのいろいろ

かれこれしるしらぬおくりす。としごろよくくらべつるひとびとなむわかれがたくおもひてそのしきりにとかくしつゝのゝしるうちにふけ

「かれこれ」は対象を大雑把に捉える言い方である。対象を個別に捉える意識が薄い。それは、「これかれ」と比べてみるとわかる。「これかれ」であれば、対象を一つずつ確かめている感じがする。「かれこれ」にはそれがない。つまり、あれやこれや、顔くらい見知っている者も、顔さえ知らない者も義理で見送りに来たという意味である。まず全体を捉えている。そのなかに、「儀礼的な見送りは嫌だなあ。」という気持ちが見え隠れする。
それに対して、次の文は対照的な内容になっている。長い間親しくしてきた人は、心から別れがたく思って見送りにやって来た。それを係助詞「なむ」で強調している。「くらべつる」の「つる」は、意志的完了。「そのひ」と「よふけぬ」は、「日」と「夜」を対照的に用いて、時間の経過を表している。「よふけぬ」の「ぬ」は、自然的完了。別れがたくて大声で(飾ること無く感情を剥き出しにして)あれこれ話している内にいつの間にか時間が経ってしまったと言うのだ。これが自然で望ましい人情の姿であるという思いが籠められている。

コメント

  1. すいわ より:

    最初の一文、さらっと読んだ時は単に大きな船着場で乗船客がわらわらと集まっていて、“ある人”はその乗船客の一人に過ぎない、不特定多数の一人という印象を受けました。周りの人とは関係性が無さそう。でも、その後の文を見ると、どうも内輪の集団らしい。となるとお義理で見送りに出てきた人(次は私が帰る番、都への足掛かりに“ある人”と繋がっておこう、などなどの思惑)と田舎で苦楽を共に過ごしたごく親しい人のないまぜな集団なのですよね、なるほど納得。感覚的には伝わるのですが、係結びで文を強調している事など、古典の文の特徴を意識しきれていません。昨年の6月2日に係結び、教えて頂いているのに。復習します。

    • 山川 信一 より:

      この作家は、物事を対照的に書く傾向があります。つまり、それ自体で独立していません。対立する何かを踏まえて書いています。(これからもその視点で見ていきましょう。)
      そう思うと、次の文の「なむ」が気になってきます。何に対してなのだろうかと。すると、その思いが見えてきます。
      ちなみに、この「なむ」には結びがありません。「思ひて」が結びになるはずですが、以下に続いてしまいました。強意の副助詞のような働きをしています。

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