冬のうたとて 紀貫之
ゆきふれはふゆこもりせるくさもきもはるにしられぬはなそさきける (323)
雪降れば冬籠もりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける
「冬の歌として 紀貫之
雪が降ると冬籠もりしている草も木も春には知ることができない花が咲いたことだ。」
「(雪降れ)ば」は、接続助詞で後に述べる事柄が起こる条件・場合を表す。「・・・すると」「・・・したところが」。「(冬籠もりせ)る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「知られぬ」の「れ」は、可能の助動詞「る」の未然形。「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「(花)ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「(咲き)ける」は、詠嘆の助動詞「けり」の連体形。
雪が降ると、草や木に雪が積もる。それは、植物としての活動を止めている草や木に、春には関わらない花が咲いたということなのだ。冬にしか味わうことのできない趣である。
詞書に注目したい。なぜ「題知らず」ではいけないのか。歌にも「冬」とあるではないか。季節が冬であることは歌からもわかる。そもそも、冬の巻の歌である。蛇足とも思える。なのに、なぜ詞書がいるのか。これにはどんな思いが込められているのか。
作者は、このように読者に違和感を持たせ、詞書がある理由を考えさせる。すると、読者は、詞書がこの歌の主題を表していることに思い至る。つまり、詞書は、この歌を一つの発見としてではなく、冬を主題にした歌として読めと指定している。この歌は、冬という季節はこう味わうのだと、味わい方の手本を示しているのだ。殺風景な冬もこのように味わうことによって趣深くなると言う。そして、これは同時に、短歌的物の見方の手本にもなっている。
コメント
冬に雪が降って草や木に積もると、「雪の花が咲いた」と捉えると言うことですね。ということは、状況によっては一面に雪の花が咲き誇っていたりするわけですよね。少々無理やりな感じがするのは、私だけでしょうか。。でも、そのように前向きに考えて、寒さも寂しさも受け入れなさい という作者からのメッセージなのですよね。
冬には冬の特徴があり、そこに目を向けるべきだ、たとえばこんな風にということでしょう。冬には春にはない美しさがあると認めた方がいいですよね。
「冬のうたとて」がまず気になりました。いつもなら「冬のうたとてよむ」ですよね。
確かに歌は詠んでいるけれど、、。
雪が降るので皆、冬籠もりをする。草も木もね。草木は自らが春には花咲かせると、当たり前の事だと知っているだろうけれど、冬には冬の、春咲くことのない花(六華)が咲くんだよなぁ。(さぁ、閉じ籠っていないで冬を歌おうではないか!)
なるほど、呼びかけられていたのですね。人を草木に喩えたのでしょうか、知らないだけで冬の厳しさにつまらないと目を閉じず、冬を見つめて歌おう、と。
この歌が呼びかけという解釈はいいですね。草も木も花が咲くのだから、人もということになりますね。ならば、「冬のうたとて」とある理由もわかります。「詠める」と限定したくなかったからです。つまり、「詠まむ」という含みがあるからです。これで辻褄が合いますね。