《研ぎ澄まされる想像力》

題しらす 読人しらす

ふるゆきはかつそけぬらしあしひきのやまのたきつせおとまさるなり(319)

降る雪はかつぞ消ぬらしあしひきの山のたぎつ瀬音勝るなり

「降る雪は降るそばから消えるらしい。山中の水が逆巻き流れる瀬の音が平生より大きく聞こえる。」

「かつぞ」の「ぞ」は、係助詞で強調を表し、係り結びとして働き文末を連体形にする。「消ぬらし」の「消(け)」は、下二段動詞「消ゆ」の連用形、「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形、「らし」は助動詞で、根拠のある推定を表す。「あしひきの」は、「山」に掛かる枕詞。「勝るなり」の「なり」は、助動詞で聴覚による推定を表す。
この寒さからすれば、山では雪が降っているのだろう。しかし、まだ冬に入ったばかりなので、その雪は降るそばから消えてしまうらしい。なぜなら、谷川は降る雪が直ぐに解けで水かさが増したのだろう、泡立ち流れる瀬の音がいつもより大きく聞こえてくるからだ。
初冬の山里での思いを詠んでいる。山里に住む作者は、聞こえてくる瀬音から山の雪の状態を推定している。ただし、「らし」という推定の根拠も「なり」という聴覚による推定になっている。つまり、のだ推定の推定である。作者は家から一歩も外に出ず、すべてを頭の中で済ませている。寒さが増してきて、行動が億劫になってきたのだろう。しかし、その分想像力は研ぎ澄まされる。聞こえてくる瀬音の違いから遠い山の有様を思い描いているのだから。

コメント

  1. まりりん より:

    谷川は雪を飲み込み水量が増し、雪も最初は跡形なく飲まれても負けじと段々と降る量が増し、やがて積もっていって互いに競うようにして、本格的な冬に移っていく様子が想像できます。
    僅かな瀬音の違いから遠くの山の様子を察する、その感性の細やかさに感服です。五感を駆使して季節を感じる、ここでは聴覚を研ぎ澄ませて冬の到来を感じているわけですね。
    確かに、雪が降るほど寒くなれば、外には出たくないですね。平安時代の家屋でしたら、家の中も寒そうですが。。
    家にいて、音で外の様子を想像する発想は、当時の建築事情も関わりがある気もします。 家は夏をむねとすべし の通り、ガラス窓など無かったでしょうし、隙間風は吹き抜けていったでしょうし。。現代の気密性、防音性に優れた住宅では、外の音は余り聞こえませんものね。

    • 山川 信一 より:

      雪が降っても直ぐ溶けて谷川の水かさが増す、そんな初冬の一時期を捉えた歌ですね。捉えなければ、意識されることが無かったかも知れません。それが歌われることで情景が見えてきますね。
      「聴覚を研ぎ澄ませて冬の到来を感じている」のですが、逆に冬の寒さが聴覚を研ぎ澄ませるのかも知れませんね。冬とは、聴覚を研ぎ澄ませる季節です。それも冬の季節感です。
      『徒然草』の第五十五段に「家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。」とありますね。しかし、これを安易に隙間風の入る家と解するべきではありません。貴族の家は現代の高気密高断熱の家とは違いますが、寒さ対策はなされていたはずです。だから、「冬はいかなる所にも住まる。」と言えるのです。防音性までは無かったにせよ。

  2. すいわ より:

    凄いですね、山で雪が降っているところも、その雪が溶けて消えるところも見ていない。溶けた雪で水嵩が増しているところも目の当たりにしているわけではない。聞こえてくる川音の違いだけを頼りに遥か彼方の山の様子を目の前に再現する。確かな情報は川音だけ。なのに映像が目の前に広がります。
    前の歌で視覚的に初冬を捉え、雪にはしゃいだものの、現実の雪は寒さという厳しさを連れてくる。この歌では生まれたての冬にすら目を閉ざし、寒さを避けている事が聴覚に絞ったことで想像出来ます。

    • 山川 信一 より:

      「寒さを避けている事が聴覚に絞ったことで想像出来ます。」同感です。作者は家の中に引き籠もっているようですね。これも当時の貴族の姿なのでしょう。「そうそう」と共感する人も多かったのではないでしょうか。

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