丹波に出雲といふ所あり。大社をうつして、めでたく造れり。しだのなにがしとかやしる所なれば、秋の比、聖海上人、その外も、人数多さそひて、「いざ給へ、出雲拝みに。かいもちひ召させん」とて、具しもて行きたるに、各拝みて、ゆゆしく信おこしたり。御前なる獅子・狛犬、背きて、後さまに立ちたりければ、上人いみじく感じて、「あなめでたや。この獅子の立ちやう、いとめづらし。深き故あらん」と涙ぐみて、「いかに殿原、殊勝の事は御覧じとがめずや。無下なり」と言へば、各怪しみて、「誠に他にことなりけり。都のつとに語らん」など言ふに、上人なほ床しがりて、おとなしく物知りぬべき顔したる神官を呼びて、「この御社の獅子の立てられやう、定めて習ひあることに侍らん。ちと承らばや」と言はれければ、「その事に候。さがなき童どもの仕りける、奇怪に候ふことなり」とて、さし寄りて、据ゑなほして往にければ、上人の感涙いたづらになりにけり。
「丹波に出雲という所がある。出雲大社を真似して、立派に造ってある。しだのなにがしとか言うものが治める所なので、秋の頃、聖海上人と、その他も、人を沢山誘って、『さあ、いらっしゃい、出雲を拝みに。かいもちひをご馳走しましょう。』と言って、引き連れて行ったところ、それぞれ参拝して、非常に信仰心を起こしている。御前にある獅子・狛犬が、反対に、背中合わせに立っているので、上人は非常に感動して、『ああ素晴らしいことだなあ。この獅子の立ち様は、大変珍しい。深い訳があるのだろう。』と涙ぐんで、『なんと皆さん、この素晴らしいことはお目に留まりませんか。この上なく情けないですね。』と言うので、皆それぞれが不思議がって、『本当に他と違っていることだなあ。都への土産話に語ろう。』など言うと、上人はその訳をいっそう知りたくなって、年輩の物を知っていそうな顔をしている神官を呼んで、『この御社の獅子の立てられ方は、きっと由緒があることでございましょう。ちょっと承りたいものです。』とお言いになったところ、『その事でございます。いたずらな子どものいたしました、けしからぬことでございます。』と言って、近寄って、据え直して去ってしまったので、上人の感涙は無意味になってしまった。」
一度その権威を認めると、訳も無く無批判無反省に、全てを有り難がる場合がある。このエピソードは、聖海上人はこの社の権威を、人々は聖海上人の権威を無批判に認めたための失敗談である。その誤りや愚かさをユーモラスに批判している。他人事なので笑いを誘うけれど、自分のことになると、気づきにくいだけで、誰しも犯しがちな誤りであろう。
それにしても、聖海上人はなぜこんな過ちを犯したのか。それは、自分を招待してくれた「しだのなにがし」に気を遣っていたからだろう。そのためこの社にあるものを、批判的客観的に見ることができず、全てを有り難く感じてしまったのだ。加えて、上人には自己に対する反省に欠けており、自分の見方に疑いを持たなかったためである。しかも、自分の偉さを他にひけらかそうとしたためでもある。
それにしても、この後、聖海上人は、その場をどう取り繕ったのだろう。また、聖海上人に載せられてしまった人々は、その場をどうだったのだろう。何ともばつが悪かったに違いない。その当事者になりかねないので、笑うに笑えない。
コメント
最近、モンドリアンの作品が逆さまに展示されていた事が話題になりましたね。過去にもモネの作品が逆さまに飾られていて(これは日本人が指摘したと記憶しています)、今回のお話といい、まるで裸の王様、その名のフィルター越しに見てしまうものなのですね。
獅子、狛犬の置かれ方が違うことに疑問を持つところまでは良かったけれど、権威に対する先入観でとんだ恥をかいた上人、「いやはや面目無い、さすが子供は神の手の内のもの、曇りのない目を持つものに諭されましたなぁ」と笑ってくれれば悪戯した子も叱られずに済みそうだけれど、、。
大人しい神官は、いたずらっ子を叱れても、上人には叱れませんね。神官がいなくなった後に、取り残された一行は、まるで漫画です。権威の持つ危うさ、愚かしさを指摘しているのでしょう。兼好自身も権威主義者であり、多分その自覚もあるでしょうから、一種の自己批判なのかも知れません。