朱雀院のをみなへしあはせによみてたてまつりける みつね
つまこふるしかそなくなるをみなへしおのかすむののはなとしらすや (233)
妻恋ふる鹿ぞ鳴くなる女郎花己が住む野の花と知らずや
「朱雀院の女郎花合わせに詠んで、献上した 躬恒
妻を恋う鹿が鳴く声が聞こえてくる。女郎花は自分が住んでいる野の花だと知らないのか。」
「ぞ」は、係助詞で強調。係り結びとして働き、文末を連体形にする。「なる」は、聴覚推定の助動詞「なり」の連体形。(音+あり)「ず」は、疑問の終助詞。
鹿の鳴く声が聞こえてくる。あれは、秋の野に妻を恋い慕う声だと思われる。でも、妻に逢えないと悲しんで鳴くことはない。野には女郎花が咲き乱れているはずだ。妻にふさわしい花がいくらでも咲いているのだから。
ここでも、女郎花を女に見立てている。もっとも、鹿なので雌鹿ではあるが。鹿と言えば萩の紅葉との取り合わせが絵になる。しかし、もうその季節は過ぎてしまった。今、鹿は女郎花の咲く野のいる。それを想像すると、鹿と女郎花の取り合わせもなかなかのものに思えてくると言うのだ。作者は、この歌で「鹿と女郎花」という新しい取り合わせを提案している。
コメント
嘆いても惜しんでも、季節は移ろい通り過ぎて行く。鹿の悲しげな鳴き声は詠み手の心も代弁しているのでしょう。
見送る秋への未練。でも、鹿よ、お前は気付かないのだろうか、秋はただ一つではない。お前の元に女郎花はあるではないか。移ろう中のそれぞれの美を詠み手は見逃さないのですね。
紅葉の赤は彩度は高いけれど、女郎花の黄色は明度が高いためか、思い浮かべる画面が光り輝くようです。菜の花の霞がかるふんわりとした黄色でなく、水色の明るい紅茶の中に沈んだような。季節によって同じ色でも印象が違うことに気付きました。
作者も妻を恋しく思っているのかも知れませんね。鹿の悲しげな鳴き声に自分の思いを重ねてもいるのでしょう。作者は、女郎花(他の女)と浮気をしたいのでしょうか?
「水色の明るい紅茶の中に沈んだような」は、面白い色ですね。私は、鹿の茶色と女郎花の明るい黄色とのコンソラストに新しい秋の風景を想像しました。