昔、西院の帝と申すみかどおはしましけり。そのみかどのみこ、たかい子と申すいまそがりけり。そのみこうせたまひて、御はぶりの夜、その宮の隣なりける男、御はぶり見むとて、女車にあひ乗りていでたりけり。
いと久しう率(ゐ)ていでたてまつらず。うち泣きてやみぬべかりけるあひだに、天の下の色好み、源の至(いたる)といふ人、これももの見るに、この車を女車と見て、寄り来てとかくなまめくあひだに、かの至、蛍をとりて、女の車に入れたりけるを、車なりける人、この蛍のともす火にや見ゆらむ、ともし消ちなむずるとて、乗れる男のよめる、
いでていなばかぎりなるべみともし消ち年経ぬるかと泣く声を聞け
かの至、返し、
いとあはれ泣くぞ聞ゆるともし消ちきゆるものともわれはしらずな
天の下の色好みの歌にては、なほぞありける。
至は順(したがふ)が祖父(おほぢ)なり。みこの本意なし。
「西院の帝」は淳和天皇。その皇女(「みこ」)で「たかい子」と申し上げる方がいらっしゃった(「いまぞがり」。「いまぞがり」は〈あり〉の尊敬語。)その皇女がお亡くなりになって(「うせたまひて」)、そのお葬式(「御はぶり」)の夜、その宮廷の隣に住んでいた男がお葬式を見ようと思って、女と一緒に女車に乗って外出した。
たいそう長く(柩の車を)家からお引き出し申し上げない(「率ていでたてまつらず」)。男は、たいそう涙をこぼし、そのまま帰ってしまおうと思っていた(「やみぬべかりける」)間に、天下に知られる色好みの源至という人が、この人も葬列を見るが、この、男の乗る車を女車だと思って、寄ってきてあれこれと(「とかく」)あだっぽく振る舞う(「なまめく」)うちに、あの色好みの至が蛍を捕って、女の車に入れていたのを、車に乗っていた人(男)がこの蛍がともす火で姿が見えているだろうか(「火にや見ゆらむ」「らむ」は現在推量の助動詞。)、この火を消してしまおう(「消ちなむずる」「な」は完了の助動詞の未然形・「むずる」は推量〈むず〉の助動詞の連体形。)と思って、女車に乗っている男が詠んだ、
〈葬列が出て行ってしまったなら、これで皇女とのお別れになるはずなので(「べみ」は〈はずなのに〉)、火を消して、年が経ってしまったなあ(「年経ぬるか」)と皆が泣いている声を聞きなさい。〉
(こんな時に女を口説くなんて不謹慎ですよ。)とたしなめているのである。
例の至が返す歌。
〈なんてお気の毒なこと(「いとあはれ」)。人々が泣く声は聞こえています(「泣くぞ聞こゆる」)。でも、蛍の火の消し方なんて私は知りません。〉
(同じように、私は恋心の消し方など知らないんです。生きているときは、人生を楽しみましょう。)と言うのである。
天下の色好みの歌としては平凡(「なほ」)であったなあ。至は源順の祖父である。皇女の葬儀には、不謹慎で残念な話だ(「本意なし」)。
死をどう捉えるかというテーマである。男は常識的な考えの持ち主である。人の死に際しては、悲しみに浸るのがいいと言う。しかし、至は、生に限りが有るなら、今を楽しめばいいと言う。語り手は、至に批判的である。さて、どうか。
「西院の帝」 「たかい子」(十九歳で亡くなったらしい。)「源至」「源順」と固有名詞を出している。この話に信憑性を持たせるためであろう。源順は、歌人で学者。三十六歌仙、梨壺の五人の一人で、『後撰和歌集』の選者である。『和名(わみょう)類聚抄』を著した。
コメント
知識人の源順の祖父ともあろう人が、何という非常識な!と怒っているのですね。至にとっては冠婚葬祭の内容に関係なく人の集まる所、良い女を見つける機会、という事なのでしょうか。亡き人を悼む、という姿勢は皆無ですね。見送られる人がまるで蚊帳の外。
恋の炎(蛍)を燃やす人と、命の灯火の消えた人を悼む人。日常と非日常。常識と非常識が逆転しているように思えますが、元よりその境目があるわけではなく、ひと繋がりの世の中を様々な人が生きている。とはいえ、至のような人がいたら、困りますけれど。
げじめ、境目は、どこにでもあります。それは必要なもの。ですが、披露宴は、花婿花嫁を祝福するだけでなく、自らの相手を見つける場でもあります。
物事は一面的に捉えるべきではないのかもしれません。ならば、葬式だってという訳なのでしょう。なるほど、葬式という場面で人は特殊な心理状態にあります。
そこにつけいる恋もあるのでしょう。
先生、こんばんは。
結婚披露宴で祝福だけでなく、自らの相手を探す場だから葬式でもという考え、
なるほどと思いました。不謹慎ですがそういう心理もあるんですね。
女車から出て、「私は男だけど何言ってんですか‼︎」とたしなめるようなことは
しないんですか❓女のふりをしてるみたいなのですが、その辺がよくわからなくて。。教えてください。
確かに、そういうこともできます。男は女車に乗っていることを知られたくなかったのでしょう。
そこで、女のふりをして至をたしなめたのでしょう。女車に乗っている男からでは説得力が少し欠けそうだし。