第百八十四段  この母にしてこの子あり

 相模守時頼の母は、松下の禅尼とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、すすけたる明り障子のやぶればかりを、禅尼手づから、小刀して切りまはしつつ張られければ、兄の城の介義景、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、なにがし男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、「その男、尼が細工によもまさり侍らじ」とて、なほ一間づつ張られけるを、義景、「皆を張りかへ候はんは、はるかにたやすく候ふべし。まだらに候ふも見苦しくや」とかさねて申されければ、「尼も、後はさはさはと張りかへんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見ならはせて、心づけんためなり」と申されける、いとありがたかりけり。世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども聖人の心にかよへり。天下を保つ程の人を、子にて持たれける、誠に、ただ人にはあらざりけるとぞ。

相模守時頼:時氏の次男。泰時の孫。二十歳で鎌倉幕府の執権になった。
禅尼:仏門に入った女子。
城の介義景:「城の介」は蝦夷鎮撫の司令官。「義景」は禅尼の兄。
けいめい:「経営」からの変か。精を出して励むこと。世話や準備をすること。

「相模守北条時頼の母は、松下の禅尼と言いました。相模守を自分の庵室に招き入れなさいますことがあった時に、煤けている障子の破れだけを、禅尼は自分で小刀で切り回しながらお張りになったので、兄の城の介義景はその日の準備を務めていたが、『その仕事はこちらにいただいて、召使いのなにがしに張らせましょう。そのような仕事の心得のある者でございます。』と言われましたところ、『その男は、私の細工によもや勝りますまい。』と言って、なおも一こまずつお張りになったのを、義景が『全部を張り替えますなら、はるかにたやすくございましょう。まだらでございますのも見苦しくございませんか。』と重ねてお言いになったので、『私も、後にはさっぱりと張り替えようと思うけれども、今日ばかりは、わざとこうしておくのがよいのである。物は破れている所だけを修理して用いるものだと、若い人に見習わせて、気づかせるためである。』とお言いになりましたのは、たいそう世にも珍しいことであった。世を治める道は、倹約を根本とする。女性ではあるが、聖人の心に通じている。天下を保つ程の人を子として持っておられたのは、誠に、普通の人ではなかったということだ。」

時頼の母が、息子が権力者になってからも、倹約の大切さを教えたという逸話である。これこそ真に子を愛する姿であろう。この母にしてこの子ありと言うけれど、立派な人物は母も立派である。母というもののあるべき姿を示している。「いとありがたかりけり」とあるようにこんな母は滅多にいなかったのだろう。また、「女性なれども聖人の心にかよへり」とあることから、女性への期待度が低かったこともわかる。
一方、この話には別の含みもありそうだ。兼好が生きていたのは、北条高時の時代であり、鎌倉幕府が腐敗していた。それに対して、時頼の頃はまともであったと皮肉を言っているのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    ごく身近な物事に対して、誰かに指図するでなく、自ら手を尽くして整えて行くその姿勢、「生き抜く知恵」を子供に示すのが親の務めなのでしょう。自分が居なくても子どもが独り立ちできるように。親が与えられるのは富でも名声でもなく、無償の愛。現代を生きる私たちも立ち返って見つめ直さなくてはならない教えであると思います。自分の欲求を満たすために子供を駒にしている事に気づかない人(特に母親)、多そうです。

    • 山川 信一 より:

      同感です。『孟子』に「子を易へて之を教ふ。」「父子の間は善を責めず。」とあるように、親子の間では教育がしにくいのです。だから、敢えてそれをしようとすれば、自らの生き方を示すしかありません。子は親の背中を見て育ちます。
      もし「自分の欲求を満たすために子供を駒にしている」なら、子どもはそれを見て育ちます。

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