第百四十四段  無邪気な解釈

 栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にして馬洗う男、「あしあし」と言ひければ、上人立ちとまりて、「あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ、あまりに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙をのごはれけるとぞ。

宿執開発:(しゅくしゅうかいはつ)前世の善行が現世で開発して善果を結ぶこと。
阿字阿字:阿字は、梵語(古代インド語)の文字の第一。仏教では特に重んじられた。
阿字本不生:真言密教の根本義。万物の本質は不生不滅、すなわち空であるという真理を梵字の「阿字」が象徴していること。

「栂尾の上人が道をお通りになった時に、川で馬を洗う男が「あしあし」と言ったので、上人は立ち止まって、「ああ尊いことだなあ。宿執開発の人だなあ。阿字阿字と唱へていることだよ。どういう人の御馬か、あまりに尊く感じられるのは。」とお尋ねになったところ、「府生殿の御馬でございます。」と答えた。「これは素晴らしいことだなあ。阿字本不生であるようだ。うれしき仏縁を結んだことだなあ。」と言って、感涙を拭われたということだ。」

上人は、馬を洗う男が「あしあし(足、足)」と言ったのを「阿字阿字」と聞き違え、「府生殿」の「ふしょう」を「阿字本不生」の「不生」の意味に取り違えた。そして、それを尊い仏縁だと思い、感涙にむせぶほど感激した。勝手な思い込みではある。似た話が第二百三十六段にもある。しかし、それとは対照的で、この話には何もコメントが加えられていない。事実だけが語られている。したがって、どう評価するかは読者に任されている。
こういう人物を「おめでたい人・お人好し」と言うのだろう。見る物聞く物のすべてを自分の都合のいいように無邪気に解釈してしまう人物である。何でも信じやすい。そのために、人に騙される危険が無いではない。けれど、幸せと言えば幸せだろう。自分の好きに世界を思い描けるのだから。それでいて、誰かに迷惑を掛けているわけでもない。ただし、平和な時代にあってこそ許される生き方である。ならば、こういった生き方が許される社会は望ましい社会である。今の日本はどうか。微妙なところだ。

コメント

  1. すいわ より:

    尊い方の馬を「阿字阿字」と馬子が拝んでいる、と上人は思い込んだのですよね。問われた馬子は「わからん事を言う坊主だ」くらいに思ったでしょうか。上人の思い込みの意味すら馬子には分かっていない。満足そうな坊さん、ならば別に思い違いを指摘する事もない。
    上人、仏の道の専門家としてその世界の中だけで生きていく分にはなるほど誰にも迷惑を掛けることなく、本人も幸せでしょう。ただ、都合よく全て自分の都合に寄せて物事を考えるとなると、「仏の道」を説く人にはなれなそうです。

    • 山川 信一 より:

      兼好はこの上人にも批判的だったのかも知れませんね。いい気なもんだと。しかし、ムキになって言うほどのものでもなく、コメントは差し控えたのでしょう。
      なるほど、「『仏の道』を説く人にはなれなそうです」。

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