題しらす よみ人しらす
いまもかもさきにほふらむたちはなのこしまのさきのやまふきのはな (121)
今もかも咲き匂ふらむ橘の小島の崎の山吹の花
橘の小島の崎:京都府宇治市、宇治川にかかる宇治橋の下流の州崎。「平等院の丑寅、橘の小島が崎より武者二騎ひつ駆けひつ駆け出で来たり。一騎は梶原源太景季、一騎は佐々木四郎高綱なり。」(『平家物語』)
「今も美しく咲いているのだろうかなあ。橘の小島の崎の山吹の花は。」
「今もかも」の「かも」は、「か」も「も」も係助詞で、詠嘆を伴う疑問を表す。係り結びで、現在推量の助動詞「らむ」に掛かる。「今も・・・かなあ」この歌は、二句目で切れる。以下が倒置になっている。
「橘の小島の崎」は風光明媚なところなのだろう。そこに咲く「山吹の花」を思い浮かべている。「橘」は地名であるが、その実の色が「山吹の花」の色と重なって黄色を印象づけている。その結果、前の歌の藤色との対照が鮮やかに際立つ。しかし、日本人には、桜色・藤色・黄色の順で印象が弱まる。黄色は、それほど心を捉えない。
この歌は、そんな「山吹の花」への素朴な思いを詠んでいる。「山吹の花」も春を代表する花ではある。しかし、その存在感は「そう言えば、山吹の花は今頃・・・」と意識される程度である。「も」と「の」の繰り返しがゆったりとした快いリズムを生み出している。また、「の」によって対象が段々絞られていき、最後に「山吹の花」が大きく映し出される。これは、まさに「山吹の花」への思いを表している。「山吹の花」は、こんな感じで思い出されるのである。あたかも何番目かの愛人のように・・・。
この歌から「橘の小島の崎」は変わらないものとしてイメージされていたらしい。『源氏物語』の「宇治十帖」に、匂宮と浮舟による次の歌のやり取りがある。「年経とも変はらむものか橘の小島の崎に契る心は」(匂宮)「橘の小島の色は変はらじをこの浮舟ぞ行方知られぬ」(浮舟)浮舟は、自分の身を「山吹の花」の存在感になぞらえているのかも知れない。『古今和歌集』の影響力の大きさがわかる。
コメント
橘が咲き匂うのかと思いきや、山吹の花なのですね。でも、山吹は香りのイメージがありません。匂い立つほどの鮮やかさに彩られた、ということなのか。そうなると橘からのイメージに重ねて山吹と、黄金色に包まれる。追憶は柔らかな光に満ちているけれど、山吹は実らぬ象徴でもあるようで、その明るさがかえって鼻の中にすんとほろ苦さを残す。鮮烈な色で印象強いはずなのに春の盛りに間に合わない山吹。懐かしみながら何か寂しさを感じる歌です。
「懐かしみながら何か寂しさを感じる」とありますが、思い出とはそういうものですね。山吹の花を思い出を象徴する花として詠んでいるのでしょう。常に意識されるわけでもなく、心を占めるわけでもない。ただ、ある瞬間に、寂しさを伴う懐かしさと共に、ふと心によぎる。山吹はそんな花なのです。
なお、「咲き匂ふ」の「匂ふ」は「美しく照り映える」の意で、全体で「美しく咲く」の意になります。