題しらす よみ人しらす
はるのいろのいたりいたらぬさとはあらしさけるさかさるはなのみゆらむ (93)
春の色の至り至らぬ里はあらじ咲ける咲かざる花の見ゆらむ
「春の色が行き渡ったり行き渡らなかったりする里はないだろう、なのにどうして咲いている咲いていない花が見えるのだろう。」
春は一様に来るはずなのに、桜の花は一斉には咲かない。中には咲いていない花がある。現代のソメイヨシノは一斉に咲く。ソメイヨシノは、すべてがクローンだからだ。しかし、当時の桜はそうではなかったのだろう。早咲き遅咲き様々あったに違いない。そのことを不満に思う。ただし、不満があるのは、愛着があるからだ。これも桜への愛の一つである。
「至り至らぬ」と「咲ける咲かざる」は二重の対句になっている。また、「あらじ」と「見ゆらむ」も対句的である。つまり、歌全体が対句構成になっている。
初句が字余りになっている。これも、「春の」と「色の」を対句的に並べたためだろう。「春の」の「の」の母音「O」と「い(I)」で母音が重なっている。「I」は狭い母音なので、発音上あまり気にならない。そのために許容されている。
コメント
「里はあらじsato ha araji」、これも「a」の音が重なっての字余りでしょうか。
暖かな光に満ちて、小川の水も温み、頬を撫でる風も柔らかになったというのに桜の咲き方にこんなに差があるのはなぜ?と。待ち侘びる気持ちが伝わってきます。重なる対句、仮名文字を見ているとチラチラして、花の咲き加減のまばらな雰囲気が字面でも体感できるような気がします。
一斉に咲くソメイヨシノ、見せてあげたい気もします。いつだったか近代美術館で長い長い巻物に、ひと枝ずつ桜の種類が描かれているのを見た事があるのですが、こんなに種類があるのか、と感心したのを思い出しました。
「「里はあらじsato ha araji」、これも「a」の音が重なっての字余りでしょうか。」その通りです。説明を忘れてしまいました。ご指摘ありがとうございます。
「重なる対句、仮名文字を見ているとチラチラして、花の咲き加減のまばらな雰囲気が字面でも体感できるような気がします。」素敵な感性です。