第四十六段  自ら号する

 柳原の辺に、強盗の法印と号する僧ありけり。たびたび強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。

強盗:(がうだう)ごうとう。
法印:僧の最高位で僧正に相当する。
号する:称する。呼ぶ。
とぞ:ということだ。

「柳原の辺りに、強盗の法印と称する僧がいた。たびたび強盗に遭遇したために、この名をつけてしまったということだ。」

これもあだ名・別称の話である。さて、前段との違いはどこにあるのか。「強盗の法印」とは、あんまりなあだ名である。前のあだ名にあったユーモアが感じられない。これでは、法印が強盗に遭ったと言うよりは、法印自身が強盗であるようにも受け取られてしまう。この僧は、あまり慕われていなかったから、こんなあだ名がついたと言うことだろうか。
問題は、「号する」「つけにける」の主語である。前段では、つけたのは「人」とあった。それが書かれていない。わかりきっているから省略したのだろうか。
ここは、視点を変えてみたい。あだ名・別称は、自分自身でつけることもできる。主語を法印自身としたらどうだろう。もしそうであるなら、なぜこんな名をつけたのか。これは、一種の開き直りである。自分がよく強盗に遭うことを敢えて公言するためである。それで、たとえ、自身が強盗であると捉えられてもいいとさえ思っている。では、なぜそう思うのか。その理由は、これ以上の強盗を避けるためである。これなら、さすがの強盗も狙いにくくなるだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    号する、屋号なんてありますね。なので通り名だけれど他者から付けられたものでなく自分から名乗る方だと思いました。それにしても、いくら被害に多数遭ったからといって自分から強盗と名乗るとは余程痛い目を見たのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      逆転の発想なのでしょう。強盗もこれでは狙いににくい。
      一方、自身によほど自信があったのでしょう。何と呼ばれようと、自分は自分であると。あだ名にこだわる、良覚僧正徒は対照的です。

タイトルとURLをコピーしました