あやしの竹の編戸のうちより、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる狩衣に、濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、ささやかなる童ひとりを具して、遥かなる田の中の細道を、稲葉の露にそほちつつ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじと思ふに、行かん方知らまほしくて、見おくりつつ行けば、笛を吹きやみて、山のきはに惣門のあるうちに入りぬ。榻に立てたる車の見ゆるも、都よりは目とまる心地して、下人に問へば、「しかじかの宮のおはします比にて、御仏事など候ふにや」と言ふ。御堂のかたに法師どもまゐりたり。夜寒の風にさそはれくるそらだきものの匂ひも、身にしむ心地す。寝殿より御堂の廊に かよふ女房の追風用意など、人目なき山里ともいはず、心づかひしたり。心のままに茂れる秋の野らは、置きあまる露にうづもれて、虫の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり。都の空よりは雲の往来もはやき心地して、月の晴れ曇る事さだめがたし。
あやしの:粗末な。
狩衣:貴族の普段着の上衣。
指貫:貴族の普段着の袴。
濃き:紫色の濃い。
ゆゑづき:訳がありそうである。子細ありげである。
ささやかなる:こぢんまりとした様子。小さい様子。
そほち:ぬれる。この時代はまだ「ぼ」と濁っていない。
えならず:何とも言えないほど素晴らしい。
吹きすさびたる:気の向くままに(盛んに)笛を吹く。
惣門:外構えの第一の正門。
榻:(しぢ)牛車をを牛から外す時、車のながえを載せる台。
そらだきもの:来客の際に、前もって客間で焚いておく香。
追風用意:(おひかぜようい)追風は、体を動かす時に漂うように、衣服に焚きしめる香の香り。その効果を考えて、予め心配りをしておくこと。
かごとがましく:いかにもぐちめいて、
遣水:引き入れた流水。
「粗末な竹の編戸の内から、かなり若い男が、月の光に色合いははっきりしないが、つやつやとした狩衣に、濃い紫色の指貫を着け、いかにも何か訳がありそうな様子で、小さな童を一人連れて、遠くへ続いている田の中の道を、稲葉の露に濡れながら分け入る間、笛を何とも言えないほど素晴らしく興に乗って吹いている、それをしみじみと趣あると聞き知る人もあるまいと思うが、行くであろう先が知りたくて、見送りながらついて行くと、笛を吹くのを止めて、山の際に建っている惣門のある家に入ってしまった。榻に立ててある車が見えるのも、都よりは目が留まる気がして、下男に聞くと、「これこれの宮がご滞在になる頃で、御仏事などもございますのでしょうか。」と言う。御堂の方に坊主なども参上している。夜寒の風に匂ってくるそらだきものの香りも、身に染みるような気がする。寝殿から御堂の渡廊下に行き来する女房が自分の香に気配りするなど、人に見られることのない山里にもかかわらず、よく気を遣っている。思うままに茂っている秋の野のように荒れた庭は、置ききれない露に埋まって、虫の音がいかにも愚痴めいて、遣水の音がのどかに聞こえる。都の空よりは雲の往来も速いような気がして、月の晴れ曇りも一定でない。」
この段も自身の経験を書く。若い貴公子の後を追うという点では前段と同じだが、前段が春の風情だったのに対して、秋の風情を書く。ただ、この文章を書く目的がよくわからない。前段同様、兼好自身の日常の一部を表したかったのか。しかし、そうであっても、それを示す理由が希薄である。ならば、この文章は、内容をそのものを伝えると言うよりは、自己の文章描写力を誇示するのが目的ではないか。なるほど、多様な語を駆使し、読み応えのある文を書いている。その結果、この場面がくっきりと浮かび上がってくる。確かに上手い文書である。兼好が名文家であることは疑いない。
コメント
前段同様、平安貴族のしっとりと雅やかな風情が好きなのでしょうね。そこに自分も身を置きたい。「書きたかった」のでしょう。
「心のままに茂れる秋の野らは、置きあまる露にうづもれて、虫の音かごとがましく、遣水の音のどやかなり」抱一の『夏秋草図屏風』が思い浮かびました。その場の香り、温度までが伝わって来そうです。
抱一の『夏秋草図屏風』ですか、なるほど。兼好の表現力はさすがですね。書きたいことを自由に書けるのが随筆の魅力です。