むめの花ををりて人におくりける とものり
きみならてたれにかみせむうめのはないろをもかをもしるひとそしる (38)
君ならで誰にか見せむ梅の花色をも香をも知る人ぞ知る
「梅の花を折って、人に贈った 紀友則
君以外の誰に見せようか、この梅の花を。色にしても香りにしても、その素晴らしさを知る人は知る。君こそ、その人なのだ。」
「梅の花」の前後で切れる。前の部分とは倒置の関係でつながる。後の部分は、上のように言う理由を述べる。何でもそうだが、ものの真価が誰にでもわかる訳ではない。鑑賞眼のある者もいれば、無いものもいる。だから、「豚に真珠」と言ったりもする。この梅の花の素晴らしさをわかる者は、自分を除けば「君」以外にはいないと言うのだ。こう言われれば、贈られた者は悪い気がしないだろう。自尊心がくすぐられるし、贈り物である梅の花は一層価値を増す。
そう考えると、謙遜して「つまらないものですが・・・」などと贈り物するのも考えものである。贈られた者が自分もそれと同等のつまらないヤツなんだなと思うかもしらないから。まあ、そこまでは行かなくても、少なくとも、自尊心はくすぐられることはないだろう。
とは言え、この歌での主役は、梅の花の素晴らしさである。この梅の花は、「君」にこんなことを言って贈りたくなるほどの色香だと言うのだ。人間は、それを言うための脇役にされている。こんな褒め方もあるのだ。まさに古今和歌集的、独創的な表現である。発想は、三十五番の歌に似ている。
コメント
「この姿、この芳しさ、梅の素晴らしさを分かる君に、このひと枝を贈るよ(まさに君こそが梅のようだ)」受け取った相手は嬉しいでしょうね。こう詠み込むことで梅が最上級のものとして扱われています。天然自然、花鳥風月に比べたら人の存在などささやかなもの、なのかもしれません。
カメラを引くようにして、人事を眺めています。人間にこんなやり取りをさせる梅の美しさなのです。