《私は春だと認めない》

はるのはしめのうた   みふのたたみね

はるきぬとひとはいへともうくひすのなかぬかきりはあらしとそおもふ (11)

春来ぬと人は言へども鶯の鳴かぬ限りはあらじとぞ思ふ

「春の初めの歌  壬生忠岑
春が来たと人は言うけれど、鶯が鳴かないうちは春ではあるまいと私は思う。」

人が何と言おうと、私は自分はそう思わない。よくある態度である。作者は、鶯が鳴いてこそ春と言えるのだと、春へのこだわりを示している。確かに、誰しもこだわりがある。この意見に賛成する者も、しない者もいるだろう。春を巡って、些細なことをあれこれ言い合う様が想像される。春はそれほど関心の高い季節なのだ。これも春の初めの風情であろう。
さて、問題は「あらし」である。これは、「あらじ」(「じ」は打消推量の助動詞)で、「まだ春ではないだろう」という意味を表す。そして、同時に「粗し」の意味も表している。つまり、「鶯が鳴かない状況を春だと言うなんて、表現が大雑把で洗練されていないと私は思う。」という意味を表している。「あらし」は、いわゆる掛詞である。清濁を書き分けない仮名のシステムを活用している。

コメント

  1. すいわ より:

    壬生忠岑、選者の一人ですね。同じ言葉を限られた少ない字数で表現して、こんなにもそれぞれの歌の味わいに違いが出る。言葉を操る洗練された技術にも驚かされるのですが、それぞれの春への思いの数だけ歌が生まれる事に感動します。
    「あらし」を初見で「嵐」と読んでしまい、違う「あらじ」だ、と読み直したのですが「粗し」も。なるほど!

    • 山川 信一 より:

      まさに仮名序に言う「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」ですね。
      貫之は、その言葉通りにこの歌集を編集しています。『古今和歌集』に駄歌はないと思っていいでしょう。もしそう見えるとしたら、こちらに鑑賞力が無いのです。

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