『土佐日記』の作者

といふあひだにかぢとりものゝあはれもしらでおのれしさけをくらひつれば、はやくいなむとてしほみちぬ、かぜもふきぬべしとさわげばふねにのりなむとすこのをりにあるひとびとをりふしにつけて、からうたどもときににつかはしきいふ。またあるひとにしくになれどかひうたなどいふ。かくうたふに、ふなやかたのちりもちり、そらゆくくももたゞよひぬとぞいふなる。こよひうらどにとまる。ふじはらのときざね、たちばなのすえひら、ことひとびとおひきたり。

問1。この舵取りの態度は、『伊勢物語』九段「都鳥」の場面とそっくりである。これは、問3と合わせると、『土佐日記』の書き手(作者)が貫之であることを暗に示そうとしたためと考えられる。もちろん、『伊勢物語』の作者は貫之と決まっている訳ではない。しかし、そうでないならなぜ「都鳥」の場面とそっくりなシーンにしたのか。誇り高い貫之が他人の作品を模倣するはずが無い。この二つの作品が同一人物であると推定させるためにわざとそうしたのである。そして、『古今和歌集』の筆頭選者も貫之なのである。このシーンは、『土佐日記』と『伊勢物語』と『古今和歌集』を結びつけている。
問2。「このをり」とは、旧国司一行が人情を解さない舵取りに促されて舟に乗ろうとした折である。残された人々は、名残惜しくてならない。そこで、漢詩を悲しげに朗詠して、少しでも出発を遅らせようとしたのだ。
問3。その真情に感激した「あるひと」(=旧国司)は、甲斐歌によって「私も別れが悲しい」という思いを伝えている。甲斐歌の地方色豊かな素朴な心情が、東国と西国とで違ってはいるけれど、この場面にはふさわしいと思ったのだろう。また、大和歌によって唐歌に対抗している。大和歌に対する貫之の誇りと愛情の表れである。
問4。藤原時実は、馬の鼻向けに関して、書き手がその態度を最初に批判した人物である。金と権力にものを言わせて、ケシカランと思っていた。しかし、藤原氏ということで先入観があったようだ。実際は、ここまで追いかけてきたことからもわかるように、時実は現地の人であり、京の人とは違って人情もあったのだ。書き手は、藤原時実に対する思いを新たにしている。

コメント

  1. すいわ より:

    問二、からうた「ども」、なのですね。一節でなく幾つもの歌を詠う事で出発させまいとする、行かせたくない気持ちに旅立つ人は真心で応えるわけですね。
    国司はもともと都の人なので、都を起点とすると、地方はとつ国、「やまと」と「から(外国)」で対比させたのかもと思いました。
    「ふなやかたのちりもちり、、」は、人々の心が感動で打ち震えて、その場の空気がさざめいた、というような感じでしょうか?
    時実は悪い人ではないのですね、任地での最後の思い出が良いもので良かったです。

    • 山川 信一 より:

      当時は漢詩の方が格が上だったのです。時代を大きく下って道長の時代でも公任が和歌を詠んで褒められた時に、同じ程度の漢詩にすればもっと評価されたのにと後悔する話が『大鏡』にあります。ですから、まず漢詩なのです。
      「「ふなやかたのちりもちり、、」は、人々の心が感動で打ち震えて、その場の空気がさざめいた」はよい鑑賞です。そういう漢詩があったようです。

  2. らん より:

    伊勢物語の都鳥、覚えてます。
    勉強しました。
    貫之はそれをチラつかせてるのですね。

    当時は漢詩のほうが格が上だったのですね。
    日本人だから大和歌がいいです。
    甲斐の国って山梨甲府のあたりですよね。
    甲斐歌、感慨深いです。

    • 山川 信一 より:

      貫之は、自分が『土佐日記』の書き手であることを隠しながら、一方で書き手であることをほのめかしています。
      読者に『伊勢物語』と『古今和歌集』を意識させることによって。
      貫之は、やまとうたをからうたと同等に地位に上げたかったのでしょう。
      甲斐歌は、この別れの場面にふさわしい歌ですね。多くのからうたに、素朴な甲斐歌で答えているところに貫之のやまとうたへの誇りが感じられます。

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