題しらす よみ人しらす
あまのかはくものみをにてはやけれはひかりととめすつきそなかるる (882)
天の河雲の水脈にて速ければ光留めず月ぞ流るる
「題知らず 詠み人知らず
天の河は雲の水路で流れが速いから、光を留めないで月が流れることだなあ。」
「(水脈)にて」の「に」は、助動詞「なり」の連用形で断定を表す。「て」は、接続助詞で単純な接続を表す。「(速けれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(留め)ず」は、助動詞「ず」の連用形で打消を表す。「(月)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「流るる」は、動詞「流る」の連体形。
天の河は、雲のように見える沢山の星が作る水路であって、月はその水路を流れて行く船である。なんと幻想的で美しいことか。それなのに、その流れが速いので、天の河を流れていく月の船は、光を留めることなく、みるみるうちに移ろっていくのだなあ。
作者は、天の河を沢山の星が作る雲に見立て、月が移ろう様をイメージ化する。そして、それによって、幻想的な夜空の美しさと月を堪能し尽くせない嘆きとを表す。
この歌も前の歌と「月」繋がりである。『万葉集』第七の巻頭に次の歌が載っている。柿本人丸の歌だと言う。「天の海に雲の波立ち月の船星の林に漕ぎ隠る見ゆ」恐らくこの歌に基づいて作ったのだろう。『万葉集』のこの歌は、極めて幻想的でイメージ豊かな歌である。『古今和歌集』のこの歌は、それを取り込んで生かしている。つまり、読み手にその歌を連想させることで歌の世界を広げている。『万葉集』の歌を連想させることで、歌の世界が二倍に広がった。言わば「本歌取り」である。これも、短歌の限界を超える工夫である。「本歌取り」は『新古今和歌集』に特徴的な技巧であるが、その萌芽がここにある。編集者たちは、既に短歌の可能性と限界を考え抜いていたのである。ちなみに、この歌を「題知らず 詠み人知らず」にしたのは、雑念を入れないためである。
したがって、この二つの歌を比較して優劣を論じたり、『万葉集』と『古今和歌集』の特徴を論じたりするのは見当違いである。
コメント
天の川のもやもやとした星の連なりを雲に見立て、その流れに乗って月の舟が雲の間を流されて行く。「光を留めない」と表現して止まることのない時間の流れも意識させ、美しい今宵を惜しむ。親しい人、愛しい人と過ごす時間の過ぎるのはあまりにも早くて見上げる空の月に乗り、今暫くこの時を堪能したい。万葉人もほら、歌っているではないか、、。
前の歌の「体言止め」では最後の言葉の先を読み手が各々思い描くことで歌の景色にいかようにも広がりを持たせることが出来るし、この歌では「本歌取り」で読み手の中で画面が広角化され、万葉集から古今集までの流れが繋がり、天の川の流れも源流から川下へとより広い範囲が見えてくるように思えます。実験的、実践的に歌の可能性を追い求めたのですね。
この歌は何重にも仕組まれた歌です。それを読み解くことの何と面白いことでしょう。「止まることのない時間の流れも意識させ」とありますが、確かにそれもありますね。しかも、万葉から新古今への歌の流れまで読み解くことができます。『古今和歌集』の魅力は尽きることがありませんね。