池に月の見えけるをよめる きのつらゆき
ふたつなきものとおもひしをみなそこにやまのはならていつるつきかけ (881)
二つなき物と思ひしを水底に山の端ならで出づる月影
「池に月が見えたのを詠んだ 紀貫之
二つと無い物と思っていたのに、水底に山の端でなくて出る月よ。」
「(思ひ)しを」の「し」は、助動詞「き」の連体形で過去を表す。「を」は、接続助詞で逆接を表す。「(山の端)ならで」の「なら」は、助動詞「なり」の未然形で断定を表す。「で」は、接続助詞で打消を伴った接続を表す。
あれっ、池にも月が見えるではないか。私は今まで月は山からだけ出るものと思いこんでいた。しかし、池の水の底に山からではなくて、出る月があるではないか。月が二つとないと思っていたのは間違いだった。水底の山から出る月の光の何と美しいことか。月にはこんな味わい方もあるのだなあ。
作者は、池に映る月の美しさへの感動をこういう形で詠んだ。。
前の歌とは「月」繋がりである。この歌は、新たなる月の味わい方の発見でもある。月にはこんな味わいかたもあるのだと言う。「月影」で終わり、余韻を持たせている。その後に何を感じるかは読み手に任される。これを体言止めと言う。体言止めは、三十一文字である短歌の限界を超えるための工夫である。編集者は、体言止めの効果を評価したのだろう。ちなみに、これを追及したのが『新古今和歌集』の「幽玄」であり、その萌芽がここにある。
コメント
月の美しさを愛でるには空を仰ぎ見るよりほかないと思っていたのに、まさかこんな所にも月があったとは。水鏡に映る月。反転した世界にも変わらぬ美しさのそれはあって、相乗倍の美しさに身惚れたのでしょう。
体言止めの「月影」、歌を読み下して行くと歌の底に月があるのですね。
なるほど、「月影」を歌の最後に置いたのは、月が水底にある状態も暗示しているのですね。さすがに貫之は抜け目がありません。
月は、天上と池底で味わえば、倍の情緒があります。新しい味わい方の提唱ですね。一方、貫之は歌の内容をいかに増やすかを考えていたようです。それが体言止めです。