《土地褒めに込めた思い》

二条のきさきのまた東宮のみやすんところと申しける時に、おほはらのにまうてたまひける日よめる なりひらの朝臣

おほはらやをしほのやまもけふこそはかみよのこともおもひいつらめ (871)

大原や小塩の山も今日こそは神世の事も思ひ出づらめ

「二条の后がまだ東宮の御息所と申した時に、大原野に詣でなさった日詠んだ 業平の朝臣
大原よ。小塩の山も今日は神代の事も思い出しているのだろうが・・・。」

「(大原)や」は、間投助詞で詠嘆を表す。「(山)も」は、係助詞で類似を表す。「(今日)こそは」の「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「は」は、係助詞で取り立てを表す。「(事)も」は、係助詞で類似を表す。「(思ひ出づ)らめ」は、助動詞「らむ」の已然形で現在推量を表す。
東宮の御息所が参詣された大原野神社よ。小塩の山も御息所が参詣する今日こそはそれを祝うだけでなく、神代の事も思い出しているのでしょう。しかし、それだけではありません。私もあなたと今日こうして逢えたことを喜ぶだけでなく、あの尊い昔のことも思い出しています。そして、きっとあなたもそうであると信じています。
まず「大原や」と言い、御息所が訪れた大原野神社を讃える。大原野神社は、小塩の山の麓にある藤原氏ゆかりの神社である。「神代の事」とは、ニニギの命が天降りの時に藤原氏の祖神であるアメノコヤネの命が補佐したことを言う。したがって、この歌は、藤原氏が今でも栄えている事への賛辞になっている。これがこの歌の公的な役割である。ただし、この歌には、それだけではない私的な含みがある。それをまず「(小塩の山)も」と「(神代の事)も」の二つの「も」により暗示する。次に「こそ」による係り結びによって、「思ひ出づ」何かが他にもあることを暗示する。それは、この歌を贈られた二条の后だけにわかるの何かである。したがって、歌はそれ自体で十分な贈り物になるのである。編集者は、こうした表現の二重構造を評価したのだろう。ちなみに、『伊勢物語』七六段では、この歌が詠まれた経緯を二条の后と業平の若い頃の恋の逃避行を暗示する物語に仕立てている。

コメント

  1. すいわ より:

    風景を詠み込んだ寿ぎの歌。表向きには誰もが雄大な光景と連綿と続く時間を思い描く訳ですが、“も”のたった一文字で特定の人には別のメッセージとして伝わる。見事なダブルフェイスの歌をたった三十一文字で成し遂げる才気に圧倒されます。こんなやり取りで意思疎通していた平安人たち、敵いませんね。こんな歌を読んだら物語に編まずにいられなかったのでしょう。『伊勢物語』の中でも第七十六段、強く印象に残っています。コメント書くのにも力が入った事を思い出しました。

    • 山川 信一 より:

      『伊勢物語』の作者は、この歌から想像力を膨らませてのでしょうね。第七六段のコメントを読み返してみました。素晴らしい鑑賞でしたね。読んでいない方がいたら、是非読むことをお勧めします。

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