かひのくににあひしりて侍りける人とふらはむとてまかりけるを、みち中にてにはかにやまひをしていまいまとなりにけれは、よみて京にもてまかりて母に見せよといひて人につけ侍りけるうた 在原しけはる
かりそめのゆきかひちとそおもひこしいまはかきりのかとてなりけり (862)
仮初めの行き通ひ路とぞ思ひ来し今は限りの門出なりけり
「甲斐の国に付き合いがありました人を訪問しようと思って下ったところ、途中で急に病気をして、死に臨むのが今か今かという状態になってしまったので、詠んで京に持って帰って母に見せよ言って人に託しました歌 在原滋春
ちょっとした往来と思っていた。しかし、これっきりの門出だったのだなあ。
「(通ひ路)とぞ」の「と」は、格助詞で内容の説明を表す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「かよひぢ」は、「通ひ路」に「甲斐路」が「物名」のように埋め込んである。「(思ひ来)し」は、助動詞「き」の連体形。「ぞ」の結び。「(門出)なりけり」
軽い気持ちで出た甲斐への旅。ほんの仮初めの往来と思っておりました。でも、今となってみると、これが人生最後の出で立ちだったのです。お母さんより先に死ぬことになってしまいました。なんともやり切れない思いです。お母さ~ん!
「哀傷歌」巻末の歌である。ここでは、若者の死を取り上げている。死は若者に思いがけず突然訪れることがある。死は老若を選ばない。作者が若いことは、最後の歌を母に贈ることからわかる。作者は年若く、まだ楽しいこともしていない。業平とは対照的に恋さえもしていない。老人ならば、死をこれまで十分に生きたからと納得することもできる。それなりの満足があるからだ。しかし、若者にはそれが無い。自分が今死ぬとは思っていない。だから、その理不尽さに打ちのめされる。しかし、人生の途上で思い掛けない形で訪れるが死である。実は、それが死の本質なのである。この歌は死の普遍的姿を象徴している。そこで、編集者は、この歌を「哀傷歌」の最後にふさわしいと考えたのだろう。
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