《重病の床の気付き》

やまひにわつらひ侍りける秋、心地のたのもしけなくおほえけれはよみて人のもとにつかはしける 大江千里

もみちはをかせにまかせてみるよりもはかなきものはいのちなりけり (859)

紅葉葉を風にまかせて見るよりも儚き物は命なりけり

「病に苦しみました秋、病気が治りそうもなく思われたので、詠んで人の元にやった 大江千里
紅葉葉を風に任せて見るよりも儚いものは命だったのだなあ。」

「(命)なりけり」の「なり」は、助動詞「なり」の連用形で断定を表す。「けり」は、助動詞「けり」の終止形で詠嘆を表す。
紅葉葉を風が吹くのに任せて見ていると、はらはらと散ってなんとも儚いものに見えます。しかし、これほど病に苦しんでいる時に見ると、それよりももっと儚いのは人間の命であることに初めて気がつきました。今、その真実をしみじみと噛みしめています。
作者は寝床から紅葉葉が見えるのだろう。親しい人にその時の発見を伝えようとしている。
内容を女から男の死に関するものへと展開している。この歌は、秋の季節感にこと寄せて命の儚さを嘆いている。「けり」が利いている。「けり」は、詠嘆を表すが、その詠嘆には発見が伴う。つまり、今まで気づかなかったことに改めて気づいた時の感動を表す。これは、重病になった者の気づきである。病で苦しいので、もう複雑な思考はできない。しかし、死の床にあるからこそ気づくこともある。歌人にとっては、自らの病気さえも歌の題材になる。編集者は、この歌が歌人としての生き様を表している点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    まさに歌詠みのサガ、いつ何時も、たとえそれが自らの今際の際であっても目に映るもの感じる事を表現せずにはいられないのですね。
    木の幹を離れ風に舞い散るもみじ葉、幾度となくこれまでも見て来て、その刹那の美しさを歌って来たけれど、本当に儚いのは我が命であったのだなぁ。言の葉が一枚一枚口から零れ落ちて行くように、我が魂魄も我が身から一片一片、離れて行くようであるよ、、こんな歌を受け取ったら、同じ歌詠みとしてはどんな気持ちになる事でしょう。すっかり葉を落とした木、でも、彩り豊かな言の葉、色褪せることなくここまでも届きましたね。

    • 山川 信一 より:

      前回の投稿の内容を変えました。主旨は変わりません。
      散りゆく紅葉葉に重ねて「言の葉が一枚一枚口から零れ落ちて行くように、我が魂魄も我が身から一片一片、離れて行くようであるよ、」とは、素晴らしい鑑賞です。きっとそんな心境だったのでしょう。その思いを歌にしたことで、千年後までも届きましたね。

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