《庭を愛した友の死》

河原の左のおほいまうちきみの身まかりてののちかの家にまかりてありけるに、しほかまといふ所のさまをつくれりけるを見てよめる つらゆき

きみまさてけふりたえにししほかまのうらさひしくもみえわたるかな (852)

君まさで煙絶えにし塩竈のうら寂しくも見え渡るかな

「河原の左大臣源融が亡くなって後にあの家に弔問に行ってそこにいた際に、庭に塩竈という所の景色を作ってあったのを見て詠んだ 貫之
君がいらっしゃらないで煙が絶えてしまった塩竈の浦のように心寂しくも見渡されることだなあ。」

「(まさ)で」は、打消の意を伴った接続助詞。「「煙絶えにし塩竈の」は「うら寂しくも」を導く序詞。「うら」は、「浦」と「うら(=心)」の掛詞。(絶え)にし」の「に」は、助動詞「ぬ」の連用形で完了を表す。「し」は、助動詞「き」の連体形で過去を表す。「(渡る)かな」は、終止形で詠嘆を表す。
あなたがいらっしゃらなくて、この庭は煙を焼く煙が絶えてしまった東北の塩竈の浦にいるように心寂しく見渡されることだなあ。以前のようにあなたと一緒に眺めることができないことが寂しさを一層募らせます。
大の庭好きで自宅の庭に塩竈の風景を再現した融の死を悼んでいる。
「君」とあるから、融は貫之にとって親しい人だったことがわかる。四首前にも融の死を詠んだ歌が載っていた。しかし、その歌は必ずしも融の死を悼むものではなかった。そこで改めてここに載せたのだろう。ただし、数首置いて載せたところに右大臣(源能有)への気遣いが感じられる。右大臣の歌に対抗するものにはしたくなかったのだろう。煙が絶えた塩竈の風景と融が亡くなって活気が無くなった家の様子が重なって感じられる。そして、庭を愛した融の人となりが伝わってくる。「うら寂しくも」は、庭に再現された塩竈の風情だけでなく融が亡くなってここに居ないことに対しても言っている。こうして、融と貫之との交友関係が想像される。一方、故人を偲ぶには故人の愛したものを題材にするのがよいと言っているようでもある。編集者は、この内容豊かな表現を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    『伊勢物語』第八十一段に塩竈に見立てられた融の庭が描かれていました。秋の夜の絢爛とした宴の様子と比べるとこの歌に詠まれた庭はただ一色、主人を失い文字通り「色を失った」寂しい風景に映ったのですね。あんなに人が集い賑わった庭が活気を失い、それはまるで塩を炊く煙の途絶えた「塩竈」のように侘しい。貫之は『伊勢物語』の中にかつての融の庭、そこに棲む彼自身を留めておきたかったのではないかと思いました。

    • 山川 信一 より:

      まさに貫之の心情を言い得ています。貫之は、塩竈に模した庭に融や業平のいた遠い昔を偲んでいるのでしょう。ですから、この歌の「君」は単純な「友」ではありませんでした。正確には「親しい友のように思えるあなた」でした。貫之は、業平や業平が生きた時代に殊の外思い入れがあったようです。それが貫之に『伊勢物語』を書かせたようにも思えます。この歌を四首前の歌に続けなかったのは、時代の違いを暗示したのでしょう。これは、ずっと時代が下ってからの歌なのだと。ただし、それでいて、この歌は友を偲ぶ歌の手本を示してもいます。

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