きのとものりか身まかりにける時よめる たたみね
ときしもあれあきやはひとのわかるへきあるをみるたにこひしきものを (839)
時しもあれ秋やは人の別るべきあるを見るだに恋しきものを
「紀友則が亡くなった時に詠んだ 忠岑
他に時はあるのに、秋は人が別れるべきか。生きている人を見るのさえ恋しいのに。」
「(時)しも」は、副助詞で強調を表す。「あれ」は、四段動詞の已然形で「あれど」の意を表す。「(秋)やは」は、係助詞で反語を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(別る)べき」は、助動詞「べし」の連体形で適当・当然を表す。ここで切れる。「(見る)だに」は、副助詞で最小限を表す。「(恋しき)ものを」は、接続助詞で逆接を表す。
他に季節はあるのに、秋に人が死に別れてよいものだろうか。秋は何もかもが恋しく感じられる季節だ。だから、目の前の生きている人を見るのだって恋しい。まして死に別れるなど到底恋しさに堪えられるものではない。何も、友則は秋に死ななくてもよかったのだ。
秋に亡くなった友則への思いを「恋し」に絞って詠む。
これも友則の死への哀傷歌である。貫之の歌と比べると、忠岑の歌は思いを「恋し」に限定している。それを伝えるのに、誰もが知る秋の人恋しさを引き合いにしている。もちろん、友則への思いは「恋し」に限定されるものではないだろう。しかし、敢えて「恋し」に絞ることでその一部でもわかってもらおうとしている。思いを一部なりとも伝えることができるからだ。これは前の貫之の歌とは異なった歌の効用だろう。また、この歌は「しも・・・あれ」「やは・・・べき」「だに・・・ものを」と三つの部分からできていて、それが作者の強い感情をよく表している。周到に練られた表現であり、歌としての完成度は高い。編集者は、こうした態度と表現を評価したのだろう。
コメント
なるほど貫之の歌とは対照的に技巧を用い焦点を絞りきって今の感情を浮き彫りにしています。それでなくても人恋しい秋、そんな季節を選んで逝くことあるまいに。古今集の編纂だってここまで来て何故?という心持ちも重なっているように思えます。色々な歌のかたちをそれぞれが歌って、歌の可能性を提示する。彼らに出来る最上の追悼のしかたなのですね。
心は言葉よりも遥かに広い。ですから、言葉はその一部を表現するしかありません。そうして、言葉以外の心を想像できるように。友則の死は、選者たちにどれほどの衝撃を与えたことでしょう。二つの歌から想像できますね。