《心の秋》

題しらす よみ人しらす

しくれつつもみつるよりもことのはのこころのあきにあふそわひしき (820)

時雨つつ紅葉づるよりも言の葉の心のあきに逢ふぞ侘しき

「題知らず 詠み人知らず
時雨れながら紅葉するよりも言葉の心の秋(飽き)に逢うことこそがつらい。」

「(時雨)つつ」は、接続助詞で反復継続を表す。「あき」は、「秋」と「飽き」とを意味する。「(逢ふ)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「侘しき」は、形容詞「侘し」の連体形。
侘しいと言えば、何と言っても時雨が降り降りして木の葉が紅葉しする秋が侘しい。けれども、それよりももっと侘しいものがあった。それは、あの人の心に飽きが来て、言葉が変わっていくことだ。それこそがどうしようもなくつらくやるせないことなのだなあ。
時雨降る秋、人の心にも飽きが来て、恋人の言葉に潤いが感じられなくなる。作者は、それに一層の侘しさを感じてしまう。
前の歌の「悲しも」に続き、今度は「侘しき」と感情を露わに表す歌が続く。本来、和歌や俳句では、こうした心情語は使わずにそれを催す情景を描写するのが定石だとされる。しかし、この歌では「侘し」が主役なのである。相手に心変わりをされた「侘しさ」がどいうものかを言うのに秋の情景を脇役として利用している。「時雨つつ紅葉づる」は、「言の葉」を言うために選ばれた。つまり、秋の情景は「侘しさ」がどの程度のものであるかを伝えるための手段になっている。重要なのは、表現の定石よりも思いが読み手に伝わるかどうかなのである。この歌は前の歌と共に表現方法の柔軟性を主張している。一方、木の葉が時雨に濡れながら紅葉する様は、涙に濡れて歪んでいる作者の顔と重って感じられる。編集者はこうした表現効果を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    木々の葉は時雨を受けて色付き秋が深まり、もの悲しくなる。あなたの言葉の中の秋(飽き)にも気付き私は涙する。私の涙に濡れる言の葉は色付くどころか色褪せてしまう。秋の景色にも勝り、あぁ、なんと侘しいこと、、。秋に彩られる風景に誰もが心動かされる。この共感から詠み手の傷心へと一気に引き込まれ、色鮮やかな視覚から冷たい時雨のモノクロの世界へと一転する。見事ですね。

    • 山川 信一 より:

      この歌に色彩の変化を読み取ったのですね。緑が時雨によって赤や緑に変わっていき、やがてモノクロへと変わりゆく。そんな変化が想像されますね。なるほど、侘しいとはこれを言うのでしょう。

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