《悲しい気付き》

題しらす よみ人しらす

ありそうみのはまのまさことたのめしはわするることのかすにそありける (818)

荒磯海の浜の真砂と頼めしは忘るる事の数にぞありける

「題知らず 詠み人知らず
波が荒い海の浜の砂と頼りにしたのは、忘れることの数であったことだなあ。」

「(頼め)し」は、助動詞「き」の連体形で過去を表す。「(数)にぞ」の「に」は格助詞で対象を表す。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(あり)ける」は、助動詞「けり」の連体形で詠嘆を表す。
波が荒い海の浜には、数え切れないほどの砂があります。私のあなたへの恋はその砂の数以上に歌を詠んでも続くとあなたを頼りにしました。しかし、今その砂の数はあなたが私を忘れることの数であったことに気づきました。
恋の終わりには、見るもの聞くもののすべてが悲しみを誘うものに思えてくる。作者は、そうした心理を表している。
仮名序の「たとえうた」に「我が恋は詠むとも尽きじ有磯海の浜の真砂は読み尽くすとも」とある。作者は、この歌を元に作ったのだろう。仮名序の歌は、恋の始まりの期待感を表している。それに対して、この歌は、恋の終わりの現実を突き付け、嘆きを表している。『古今和歌集』の恋歌は、すべて悲恋を歌っている。「荒磯海の浜の真砂」は、こうして『古今和歌集』にふさわしい恋歌の題材となるのである。編集者は、優れた歌の有様を示したのだろう。ちなみに、前の歌とは「荒」繋がりである。

コメント

  1. すいわ より:

    「荒磯海」と穏やかでない心が冒頭から連想され、数え切れぬ砂の粒は愛情の数ではなく忘れて行く思い出の数々であった、、結んだ手で掬った浜の砂、サラサラと零れ落ちていつの間にか自分の手には残らない。海を題に取っているのに乾いた砂の印象に引っ張られて心の渇きを強く感じさせます。荒れる磯の様子はさながら詠み手の心の内を映した景色なのですね、、

    • 山川 信一 より:

      砂の粒を「忘れてゆく思い出の数々」と読んだのですね。手のひらからサラサラとこぼれて残らない、そんなイメージを与えますね。いい読みです。この歌を独立して鑑賞すればこれもありです。私は、仮名序に拘った解釈をしました。「荒磯海」が、詠み手の心を暗示していることは確かですね。

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