《思い出になる前に》

題しらす よみ人しらす

いまはとてきみかかれなはわかやとのはなをはひとりみてやしのはむ (800)

今はとて君が離れなば我が宿の花をば一人見てや偲ばむ

「題知らず 詠み人知らず
もうこれきりと言って君が離れて行ってしまったら、我が家の桜を一人で見て君を偲ぶのだろうか。」

「(離れ)なば」の「な」は、助動詞「ぬ」の未然形で完了を表す。「ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(花)をば」の「を」は、格助詞で対象を表す。「ば」は、係助詞の「は」が濁ったもので取り立てを表す。「(見)てや」の「て」は接続助詞。「や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(偲ば)む」は、助動詞「む」の連体形で推量を表す。
もうこれまでと言って、君が私から離れて行ってしまったら、私は桜の花をあなたと共に見て楽しんだ思い出として一人で眺めながらあなたを偲ぶのだろうか。どうか離れて行かないでください。
前の歌とは桜の花繋がりである。この歌は直接相手に贈ったものだ。この歌も未確定の助動詞「む」が使われているけれど、その蓋然性が高く、失恋への不安がわかる。ただし、想像が桜の花を見て偲ぶ自分の姿までなので、前の歌よりも少し心の余裕がありそうだ。「人」ではなく、「君」と言っているところからも、まだそれほど疎遠な関係ではないと思われる。共に桜を見て楽しんだ経験を思い出させ、相手の心を動かそうとしている。編集者は、落花について前の歌と対照的な歌を載せたのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    桜の花はどこにでも咲くけれど、あなたと共に「美しいね」と眺めた我が家の桜は私とあなただけのもの。「もう、これでお別れだね」と言ってあなたが去っていってしまったら、側にいないあなたを思ってただ一人、この花の行く末を眺めることになるのでしょうか(どうか、そんな事、おっしゃらないで。「思い出」にしないで欲しい)。
    詠み手は女性でしょうか、控えめな表現にかえって男は後ろ髪引かれるかもしれない。「君」と呼びかけているあたり、そこまで冷え込んだ仲ではないと女は思っているようだけれど、さて。

    800首!読んで来たのだと感慨深く思っていましたら、9月10日、読売新聞の「歌壇」に
    「症状も不機嫌さへも順を追ふ家族みんなでコロナになれば」
    の歌、先生のお名前と共に載っているのを拝見しました!
    一人でも大変な事なのにご家族で順繰りに罹患されて、同時で無い分、家の中で「患い」の期間も長かった事でしょう。そんな中、いつも通りの講義を続けて下さっていたのだと、今更ながら頭の下がる思いでおります。どうぞそんな時はご無理なさらないで下さい。「古今和歌集」の旅をこれからも続けられるように。先生のご指導無くしてこの旅は続けられませんから。

    • 山川 信一 より:

      この歌の作者は女性がふさわしいようですね。男はこんな歌に弱そうです。作者は男心を知っているようです。しかし、それでも恋は終わる時には終わるのでしょうか。
      この歌で800首でしたね。この間、約2年半。よく一緒に学んでくださいました。ありがとうございます。1111首までは300首あまり。あと1年は掛かりそうですね。学びの旅はまだ続きます。これからもよろしくお願いします。
      讀賣歌壇の歌は、8月の初めに家族でコロナに罹ったことを詠みました。自分で歌を作ってみると、『古今和歌集』の歌の偉大さがますますよくわかります。鑑賞と創作は共に行った方がよさそうです。

タイトルとURLをコピーしました