題しらす よみ人しらす
みなせかはありてゆくみつなくはこそつひにわかみをたえぬとおもはめ (793)
みなせ川有りて行く水なくはこそつひにわか身をたえぬと思はめ
題知らず 詠み人知らず
水無瀬川有りて行く水無くはこそつひに我が身を絶えぬと思はめ
「水無瀬川が有って行く水が無かったら、ついに私の身を絶えてしまったと思うだろうが・・・。」
「無くばこそ」の「無く」は、形容詞「無し」の連用形。「は」は、係助詞で仮定を表す。「こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし次の文に逆接で繋げる。「(絶え)ぬ」は、助動詞「ぬ」の終止形で完了を表す。「(思は)め」は、助動詞「む」の已然形で推量を表す。
水無瀬川は、見えないけれど砂の下に水が流れている。しかし、もし水無瀬川が有るのにその水が流れることが無くなったら、ついに私の身をあの人が切れてしまったと思うだろう。けれど、あの人は、時には顔を見せるのだから、愛は途絶えていないはずだ。
男は滅多に顔を見せない。愛情が薄くなってきているのは確かだ。しかし、それでもたまに顔を見せるので、作者はまだ諦めきれない。そんな思いを水無瀬川にたとえている。事実をどう捉えるかは人それぞれである。人は事実を自分が望むように捉える。そのために理屈をこねたりもする。この歌では、「有り」と「無く」を対照し、「こそ」の係り結びで結論をぼかして表している。編集者は、人間の普遍的なこの心理を捉えた点を評価したのだろう。
コメント
水無瀬川の砂の下を流れる水量が、愛情の大きさを現しているように感じます。
今や恋人は、滅多に顔を見せなくなった。水はちょろちょろとしか流れていないか…
でも、まだ枯れ果ててはいない…
作者の諦めきれない気持ちが良くわかります。
なるほど、砂の下を流れる水量が愛情の大きさを表すこともあるでしょう。しかし、ここでは水量はあまり問題にされていないようです。問題なのは、「有り無し」です。水は少しでも有ればいいのです。作者はそれを信じて縋っています。
男の詠んだ歌だと思って読んでいました。水無瀬川は流れているはずなのに水の流れが無くなることがある。私が貴女の所へ通えなくなり姿を見せなくなって、いよいよこの恋も終わったと貴女は思うだろう。水底が見えて干上がったように見えたとしても水無瀬川はその下を流れ続けているように私の恋心も死に絶えることなくいまだに貴女へと向かっているのに、、。読み違えた原因が自分でわかりません。
多分「思はめ」を命令形と思ったからではないでしょうか。「水無瀬川が有って水が無くなったら、ついに私の身が絶えてしまったと思いなさい。でも、そんなことはないのです。水はちゃんと流れていますよ。」しかし、この「思はめ」は、「こそ」による係り結びによる已然形です。それに従えば、女の思いを述べた歌になります。
すっきりしました!助詞の捉え方でこんな読み違いをしてしまって。一文字に込める思いをしっかり受け止めなくてはなりませんね。
古文も日本語ですから、日本語の感覚を大事にして読まねばなりません。そこが外国語を読む場合との違いです。ですから、すいわさんの読み方は間違っていません。しかし、それでも、今とは文法が違っている部分もあります。それも考慮する必要があります。