《燃ゆれど萌えず》

物おもひけるころ、ものへまかりけるみちに野火のもえけるを見てよめる 伊勢

ふゆかれののへとわかみをおもひせはもえてもはるをまたましものを (791)

もの思ひける頃、ものへ罷りける道に野火の燃えけるを見て詠める 伊勢
冬枯れの野へと我が身を思ひせば燃えても春を待たましものを

「もの思いをした頃に、あるところに行く道に野火が燃えていたのを見て詠んだ 伊勢
冬枯れの野辺と我が身を思うなら、燃えても春を待とうものを。」

「思ひせば」の「思ひ」には、「火」が掛かっている。「せ」は、サ変動詞「す」の未然形。「ば」は、接続助詞で仮定を表す。「(待た)ましものを」の「まし」は、助動詞「まし」の連体形で反実仮想を表す。「ものを」は、終助詞で詠嘆を表す。
焼くことで春に草がよく生えるために冬枯れの野辺に火が放たれています。その野火に我が身を置き換えて思うなら、ああして燃えても春を待つでしょう。でも、私は待てません。私は人なので、胸が張り裂けるばかりに燃えるだけで、希望の春草は萌えることがないのですから。
前の歌とは野火繋がりである。実際に野火を目にし、野火の燃え広がるイメージを利用して自らの恋の火を表す。ただし、前の歌は自分の思いを野火にたとえただけだが、この歌では野火との違いを言っている。前の歌にあった相手の心を動かそうとする思いは抑えられ、もう自分には春は来ないという嘆きが前面に出ている。「思ひ」に「火」を、「燃え」に「萌え」掛け、目にした野火と自分との違いを「せば・・・まし」の反実仮想によって表す。編集者は、こうした発想と表現を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    貴方の心はすっかり私から離れてしまった。野焼きする様を見ていると、もし私がこの野辺のようだったらと思ってしまう。焼き尽くされたとしても季節が巡り春になればまた若葉が萌え出るように、私の心がこの野辺ならば、恋に焼き尽くされ死んでしまった私の恋心も春を待てば復活出来るでしょうに。もうなす術もありません、、
    「冬枯れの“野へと”」を単なる野原でなく「野辺」と読んでしまい、野焼きする野原の「生」と燃えた後復活しない自分の恋心の「死」を対照しているのかと思ってしまいました。

    • 山川 信一 より:

      「野へ」は、私の誤読でした。すみません。「野辺」に訂正します。言い訳をすれば、「(野)へ」の方向性に囚われました。作者の心が野へ向かう感じがしました。そこで、これを何とか生かそうと考えました。もしかすると、この表現にはその意図もあったのかも知れません。しかし、それでも「野辺」をしっかり言うべきでした。訂正します。

  2. まりりん より:

    恋と火は、イメージすやすいですね。少し怖いですが。。
    作者は、「実際に身を焼いてしまうわけにはいかない。でも、たとえ起きな犠牲を払ってもこの恋を貫きたい。」と言っているように感じました。

    • 山川 信一 より:

      恋が復活するなら燃えても構わないのに、そうはならないから燃えることもできない。もどかしいでしょうね。

タイトルとURLをコピーしました