題しらす 僧正へんせう
いまこむといひてわかれしあしたよりおもひくらしのねをのみそなく (771)
今来むと言ひて別れし朝より思ひくらしの哭をのみぞ泣く
「題知らず 僧正遍昭
直ぐ来るだろうと言って別れた朝から物思いに毎日一日中泣いてばかりいる。」
「(今来)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。「(別れ)し」「は、過去の助動詞「き」の連体形。「おもひくらし」には、「思ひ暮らし」と「日暮らし」が掛かっている。また、物名として「蜩」が入れてある。「哭をのみぞ泣く」は、「哭を泣く」が「泣く」の意で、それに「のみ」(限定の副助詞)と「ぞ」(強調の係助詞)を加えたもの。「泣く」は、四段活用の動詞「泣く」の係り結びによる連体形。
あなたは「直ぐにやってきますよ」と言って別れて行きました。それなのに、それきり逢いに来てくれません。だから、私は、その朝からずっと毎日あなたを持ち続け、物思いに日を暮らし一日中泣いてばかりいます。そう、あの蜩のように。
この歌も男の作者が女の立場に立って詠んでいる。
作者は当事者なのだろうか。しかし、当事者であるならあまりに冷たい。余計なお世話という気もしてくる。おそらく、想像の作だろう。なるほど、女はこんな場合、直ぐに来るという男の言葉を信じて泣いてばかりいるだろう。そういう女なら、きっとこういう歌を詠むだろう。「朝より思ひくらしの哭をのみぞ泣く」には、女の現在の悲惨な状態を表すための技巧が凝らされている。ただ、想像の作と思うためか、女の情感が今一つ伝わってこない。これも、「仮名序」の「僧正遍昭は、歌のさまは得たれども、まことすくなし」に当てはまるか。編集者は、想像では「まこと」は少ないと、想像の作の限界を示したのだろう。
コメント
「蜩」が織り込まれていたのですね。夏の終わりの夕暮れ時、恋の終わりが予感されてより一層儚げな寂しい舞台が調います。前の歌もそうですが僧正遍昭は自分の為に「愚かなまでに従順に待つ女」が理想なのでしょう。「夢の女」、そんな風に自分を待っていて欲しい。現実の女は強かだと知っていてこういう歌を詠んでいるのでしょう。上手い歌の為の技巧。相手への思いを込めて贈り物として施されている技巧とは根本的に違いがあるように思えます。
物名として詠み込まれた「蜩」が夏の夕暮れの季節感を加えています。周到な表現です。さすが僧正遍昭ですね。ただし、私もすいわさんがおっしゃるように「相手への思いを込めて贈り物として施されている技巧とは根本的に違いがある」ように感じます。フィクションとして作り上げた女性作者好みの憐れな女性像ですね。
理想の女性像として提示したのだとしたら、何とも不愉快ですね。余計なお世話です。前の歌で私が思った 自戒と反省 とは対極にあります。
作者は嫌われ者だっか…?
でも、掛詞を駆使し物名を折り込み、技巧の優れた歌だと思います。
まあ、自分にとっての理想像ですから、それに対して第三者は口が出せません。当事者にとっては、迷惑な話でしょうが・・・。作者には「自戒」も「反省」も無さそうですね。