題しらす 僧正へんせう
わかやとはみちもなきまてあれにけりつれなきひとをまつとせしまに (770)
我が宿は道も無いまで荒れにけりつれなき人を待つとせし間に
「題知らず 僧正遍昭
私の家は道も無いまでに荒れてしまったことだなあ。冷たい人を待つとした間に。」
「(荒れ)にけり」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。以下は倒置になっている。「せし」の「せ」は、サ行変格活用の動詞「す」の連用形。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。
あなたが訪ねて来なくなって、私の家は庭はもちろんのこと、道も無いまでに荒れてしまいました。それどころか、冷たいあなたを待つと心に決め、待っている間に私の心はそれ以上に荒れてしまいました。私の決心は間違っていたのでしょうか。
作者は、女の気持ちになって詠んでいる。「道も」の「も」によって、心まで荒れてしまったことを暗示している。また、「待つとせし間に」で、女の決心を表している。いずれも繊細な表現である。その点、前の歌とは、対照的である。編集者は、前の歌との表現法の差異を示したのだろう。では、この女は、自分が見捨てた女なのか。だとしたら、皮肉なことに、歌の内容よりもこんな歌を作ったこと自体に作者の冷たさが表れている。「仮名序」に「僧正遍昭は、歌のさまは得たれども、まことすくなし」とある。作者の歌への批判も込められているのかも知らない。
コメント
そうなのです、女の詠んだ歌ではない。もし忘れ去られた女の詠んだ歌ならば荒廃した様子が心の状態と呼応して侘しい歌と同情できるのだけれど、、。
「まつとせしまに」で女が自ら選んだ道、待つと決めたのは女なのだと、捨て置いた後ろめたさを責任転嫁しているようで後味が悪い。女の立場で詠む、私は貴女の気持ちを分かっているのだと言うのなら、歌ってないで会いに行けと言いたくなります。そうしてもらいたかったのか?とんだ意気地なしですねぇ。
僧正遍昭はなぜこの歌を作ったのでしょう。その辺の事情がよくわかりません。やはり、作者が男だとわかっているからでしょうか、女の侘しさに共感しにくいですね。
作者は、自分のことを 冷たい人 と自覚しているのですね。自分に捨てられた女性の気持ちも分かっている。
この歌、作者が自分の余命が長くないと悟った時に、かつて遠い昔に自分が捨てた女の事を思い出し、反省と自己批判のつもりで詠んだとか。。
苦しいかな…?
この歌は、次の歌と同様に一種のフィクションです。もちろん、過去の自分を重ね合わせて作っているのでしょう。では、なぜこんな歌を作ったのか。そこには、きっと、作者をそんな思いにさせた何かがあるに違いありません。余命の短さを悟ったというケースも考えられますね。