題しらす よみひとしらす
みてもまたまたもみまくのほしけれはなるるをひとはいとふへらなり (752)
見ても又またも見まくのほしければ慣るるを人は厭ふべらなり
「題知らず 詠み人知らず
逢っても何度も逢うことがほしいので、慣れるのを人は嫌うようだ。」
「(見)まく」の「ま」は、推量の助動詞「む」の古い未然形。「く」は、準体助詞。「ほしければ」は、形容詞「ほし」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(厭ふ)べらなり」は、状態を推量する助動詞「べらなり」の終止形。
あの人はなかなか逢いに来てくれない。でも、それは私が嫌われているからじゃないのだわ。私に何度も何度も逢いたい気持ちがあるから、それで私を見慣れることを嫌がっているようなのね。あの人はずっと新鮮な気持ちでいたいから、なかなか逢いに来てくれないのだわ。
作者は、なかなか逢ってもらえない現状を都合よく解釈し、恋人の愛を信じようとしている。そうしなければ、現状に耐えられないのだろう。
この歌は、一応女の気持ちとして解釈したが、「詠み人知らず」とあるので、作者は男女のどちらもあり得る。恋する人は、望まない状況も自分に都合のいい強引な解釈で乗り切ろうとする心理が働くことがある。なるほど、相手が自分に逢うことを嫌がる絶望的な状況さえもこう解釈すれば救われる。編集者は、この心理を捉え、的確に表したことを評価したのだろう。
コメント
ものは考えようですね。恋人が、自分から離れようとしているのではないかと不安を抱きながら、なんとか前向きに解釈して乗り越えようとしている。いじらしいです。この歌、相手に贈ったでしょうか。贈られてた恋人がドキッと動揺するようだったら、まだ諦めるのは早いかも。。
逢いに来ないのは飽きたくないからだなんて、こじつけもここまで来れば見事ですね。相手に贈ったら、相当の皮肉になりますね。果たして心を動かせるでしょうか?「いじらしい」可愛いヤツと。
来ない訳をこう理由づけする事で現実から目を逸らそうとするのですね。きっと来ないことは分かりすぎるくらい分かっている。それでも諦めがつかない。ならば来られない事情がある事にすればいい。他の女の所に行っているとは思いたくない。ならば、、。
「見ても又」ここで思いは遂げたけれど一度の逢瀬で満足するはずもなく「またも見まく」何度でも会いたい。三日夜の事を考えると正式な妻としての相手ではなさそう。そうだとすれば通う頻度が少なくなった段階で恋の終わりは見えている。同じ音が続く所が思いの引き摺り具合を象徴しているように思えます。
その通りでしょう。ただ、この歌は、「詠み人知らず」ですから、自分が訪ねても喜ばない女を詠んだとも思えます。女がいつもふられるがわではありませんから。そんな状況を想像しても面白いと思います。そこにも編集者の意図が有ったのではないでしょうか。恋はいろいろですから。「みてもまたまたもみまくの」と「同じ音が続く所が思いの引き摺り具合を象徴している」とのご指摘、納得しました。