《形見の実際》

題しらす 読人しらす

あふまてのかたみもわれはなにせむにみてもこころのなくさまなくに (744)

逢ふまでの形見も我は何せむに見ても心の慰まなくに

「題知らず 詠み人知らず
逢うまでの形見も私は何のために。見ても心が慰まないことよ。」

「何せむに」は、連語で疑問を表す。「何のために」「どうして」の意。以下に「持っているのだろうか」が省略されている。「(慰ま)なくに」は、連語で詠嘆を込めた打消を表す。「ないことよ」の意。
あなたに再び逢うまでの形見も私は何のために持っているのでしょう。見ても心が少しも慰められることはありません。むしろ、見ればつらいだけです。これでは持っている甲斐がありませんか。あなたはどうなのでしょうか。
形見がかえって逢えないつらさを引き起こしてしまうと言う。こう言うことで、相手に逢いたいと訴えている。
前の歌とは「形見」繋がりである。「形見」のヴァリエーションがしばらく続く。逢えない者同士は、それぞれ逢うまでの形見として何かを持っていることがある。逢えない間の心を慰めるためである。しかし、実際は、期待通りには行かないと言うのである。ここに常識を超えた発見が有る。表現としては「何せむに」以下の省略、「なくに」の余韻が利いている。編集者はこうした点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    亡き人の形見ならば、その物を通して思い出へと導く通行手形のようになるのでしょうけれど、逢えない恋人の形見だと、所詮「代わり」でしかない。形見を見る度に相手が自分の元にいない事に気付かされる。詠み手のため息まで聞こえてきそうです。

    • 山川 信一 より:

      亡き人と生きている人では形見の意味が違いそうです。逢える可能性がある場合には、形見はかえってつらいものとなりかねません。この歌は、その違いの発見を詠んだのですね。

  2. まりりん より:

    形見と言ったら亡くなった人。生きている人の形見というのはピンと来ません。例えば恋人同士でお揃いのアクセサリーを所有したりとか、、お互いの写真を肌身離さず持っていたり、という感じでしょうか。その形見で心が慰められないと? んー、その感覚がよく分かりません。。

    • 山川 信一 より:

      形見は、遺品の意味合いが強いようですが、日本国語大辞典には、形見の意味が次のようにあります。「死んだ人、また遠く別れた人を思うよすがとなるもの。」亡くなった人の物であれば、思い出にのみなるのでしょう。しかし、別れた人は、逢える可能性はあるのに、逢える蓋然性は極めて低いわけですから、形見の意味合いが違ってきます。

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