《究極の復讐》

題しらす しもつけのをむね

くもりひのかけとしなれるわれなれはめにこそみえねみをははなれす (728)

曇り日の影としなれる我なれば目にこそ見えね身をば離れず

「題知らず 下野雄宗
曇りの日の影となっている私なので、あなたの目には見えないが、あなたの身を離れない。」

「(影と)し」は、副助詞で強意を表す。「(なれ)る」は、存続の助動詞「り」の連体形。「(我)なれば」の「なれ」は、断定の助動詞「なり」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「(目に)こそ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を已然形にし逆接で次の文に繋げる。「(見え)ね」は、打消の助動詞「ず」の已然形。「(身を)ば」は、係助詞「は」が濁ったもので指定を表す。「(離れ)ず」は、打消の助動詞「ず」の終止形。
私はまさに曇りの日の影となっている身なのです。ですから、あなたの目には見えないでしょう。でも、いつもあなたの身に寄り添って離れることはないのです。
別れても離れることはない、いつも傍に寄り添っていると伝える。
作者はこの失恋によほど堪えているのだろう。別れは受け入れている。もう以前のように戻れるとは思っていない。しかし、このままでは気が収まらない。そこで、恐ろしいことに、心ならまだしも、自分の身が常に相手に寄り添っていると言う。こう言われれば、相手は常に作者を意識せざるを得なくなる。相手を縛り続けたいのだ。恨み言ではないから、小町に非難されることもない。究極の復讐である。こうして、この歌は、失恋の根深さ、執念深さを表している。「曇りの日の影」というたとえが俊逸である。編集者は、この着眼点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    泣く泣く別れた相手への歌ならば「陰ながらあなたを思っています」とならなくもないのでしょうけれど、一般的にはこの歌、受け取ったら怖いですね。ジャパンホラーの原点がこんなところにあったとは!復讐、というより執着でしょうか。まるでストーカーのよう。相手に気付かれることなくその思念を纏わり付かせる。
    619番の「寄る辺無み身をこそ遠く隔てつれ心は君が影となりにき」も現実では無理だけれど、あなたに添う為に影になってしまったという歌でしたけれど、こんなにも受ける印象が違うのは何故なのでしょう。

    • 山川 信一 より:

      恋は怖いですね。たまに失恋による殺人事件が起こります。殺人までに到らなくても、ストーカーは有りがちです。恋は人をそこまで追い詰めます。これも恋の一面です。私が「復讐」と書いたのもそのためです。傍から見れば、「執着」でしょう。しかし、作者の意識からすれば、自分を振った相手への「復讐」です。愛は時に憎しみに変わりますから。
      619番とは大違いですね。言葉はもちろんそれ自体で意味を持っています。しかし、最終的に言葉の意味を決めるのは、状況です。誰がどんな場面で使うかを考慮しないわけにはいきません。言葉は、もちろん歌も、コミュニケーションの手段なのですから。

  2. まりりん より:

    うわっ、怖い! 前の歌からの予感通り、まるでストーカーですね。「曇りの日の影」、、確かに、確実に存在しているのに目には見えないですものね。後味の悪い歌です。 この作者、歌を贈った後に女性に危害を加えたりしなかったことを祈ります。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』が恋をリアルに再現しているなら、この心理も取り上げないわけにはいきません。残念ですが、この心理も今も昔も変わらない恋の一面です。ストーカーも恋による殺人さえも後を絶ちません。

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