題しらす よみ人しらす
わすれなむわれをうらむなほとときすひとのあきにはあはむともせす (719)
忘れなむ我を恨むな郭公人のあきには逢はむともせず
「題知らず 詠み人知らず
忘れてしまおう。私を恨むな。郭公は人のあき(秋・飽き)に会おうともしない。」
「(忘れ)なむ」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「む」は、意志の助動詞「む」の終止形。「(恨む)な」は、終助詞で禁止を表す。「あき」は、「秋」と「飽き」の掛詞。「(逢は)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。「(せ)ず」は、打消の助動詞「ず」の終止形。
私はあなたのことを思い切って忘れてしまおうと思います。どうかそんな私を恨まないでください。郭公はいつまでもいて、人の飽きという秋に出会おうともしません。それが自然の姿です。ですから、私も郭公に習って、あなたの飽きに会う前にこの身を引こうと思うのです。恋にも四季があります。
作者は、別れを、後腐れなく、納得して、相手に受け入れてもらおうとしている。相手が恨みの感情を抱くことは、自分だけ無く相手にとっても苦痛である。それよりもこの恋をいい思い出として残そうと言うのである。そこで、秋には姿を見せない郭公を挙げ、自分も同様であると言う。
この歌も前の歌と同じ「忘れなむ」から始まっている。この編集により、前の歌の返歌と思わせたいのだろう。作者が女の未練を断ち切り、しこりを残さず別れようとしているように読める。歌の技巧としては、郭公を出すことで「秋」に「飽き」を掛ける。これは、恋という人事を四季という自然の中で捉える発想である。これにより主旨に説得力を持たせている。ここにこの歌の工夫がある。編集者は、以上の理由によってこの歌を採用したのだろう。
コメント
貴女が変わらず私を思ってくれていることに、心打たれています。でも、やはり貴女とはお別れしようと思います。どうか恨まないでください。季節が移り変わるように、人の心も変わるのです。私は、郭公も姿を見せなくなる秋のこの時期に、とうとう心変わりしてしまいました。いいえ、貴女のせいではありません、飽きやすい性分の、この私のせいです。どうかお元気で。貴女のこれからのお幸せを祈っています。
by まり子式部
「まり子式部」さま、素敵なコメントをありがとうございます。
それにしても、この男はよくもこうはっきり言えますね。前の歌の前提があってのことなのでしょうね。別れの条件は整っているのですね。
(前の歌を受けて)貴女はどうあっても私の事を諦められないようですね?郭公は秋を待たず山へと帰ってしまう。それと同様に人の別れを直視しようとしないあなた。どんなに目を背けた所で秋(飽き)は来るのです。だからそうなってしまう前に私はあなたの事を忘れてしまおうと思います。そんな私をどうか恨まないでください、ということなのか?分かりにくいです。
相手の態度を受けていよいよ別れをはっきりと切り出した形なのでしょうか。でも、相手の断ち切れない思いを汲んで自分から手を引くと宣言する辺り、思いやりがあるのかもしれません。
編集では、返歌として読ませようとしています。しかし、元々は別の場面の歌なので、どこかスッキしりし無いところが出てくるのでしょう。
でも、ここは、編集の意図を考えて「相手の態度を受けて」「相手の断ち切れない思いを汲んで自分から手を引くと宣言」したと、読むのが妥当ですね。