《未練》

題しらす よみ人しらす

わすれなむとおもふこころのつくからにありしよりけにまつそこひしき (718)

忘れなむと思ふ心のつくからに有りしより異にまづぞ恋しき

「題知らず 詠み人知らず
忘れてしまおうと思う心が付くやいなや、以前よりいっそうまずあなたが恋しい。」

「(忘れ)なむ」の「な」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形。「む」は、意志の助動詞「む」の終止形。「(つく)からに」は、接続助詞で「後に述べる事態が直ちに始まる」意を表す。「(あり)しより」は、過去の助動詞「き」の連体形。「より」は、格助詞で比較を表す。「(まづ)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「恋しき」は、形容詞「恋し」の連体形。
私はあなたのことを忘れてしまおうと心に決めました。もうこの恋はどうにもなりません。それはあなたにもおわかりですね。私があなたをどんなに思ったところであなたは応えてくれないのですから。なのに、心とは不思議なものです。こう決心した途端に以前にも増して、まず、あなたのことが恋しい気持ちになってしまうのですから。私は、この先どうなってしまうのでしょう。
作者は、今の思いを正直に歌にした。決して、この恋を失いたくて失うわけではないのだと。こう言うことで、自ら別れを受け入れ、相手にも受け入れて貰おうとしている。
この歌も恋の最終場面の思いを表している。その思いとは未練である。この歌は、未練の生じる心理過程を順を追って三十一音にまとめている。編集者は、その手際のよさを評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    前の歌の返歌とも考えられますかね?
    まだ相手を慕う気持ちが残っているのに、別れの申し出に応じた。再び振り向いてくれる事はない、と諦めたのでしょうか。
    このような未練を歌に詠んだら、余計に忘れ難くなるでしょうに。作者は、忘れられない辛さを楽しんでいる?

    • 山川 信一 より:

      読めます。『古今和歌集』は、このように物語としても読めるように工夫して編集されています。想像力が刺激されますね。『源氏物語』は、『古今和歌集』無しには生まれなかったでしょう。まりりんさんも紫式部になって、物語を紡いでください。
      作者は、「忘れられない辛さを楽しんでいる」とまでは言えないまでも、恋の過程を味わっているようです。恋の過程にはそれぞれしかない味わいがありますから。

  2. すいわ より:

    男が716番の歌で別れを匂わせ、717番で更に水を向け、それに対して718番で女がそれに応えた、という編集かしらと思いました。
    自分より身分の上の人と付き合うとなれば、いつかはこんな日が来ると頭の片隅では分かっていた。覚悟はしていたはずなのに、いざ別れを切り出され貴方を忘れなくてはと思えば思うほど、一緒に過ごした素敵な時間が思い起こされてしまって、尚更に貴方を愛おしく思ってしまう、、。手放し難い恋、一縷の望みに賭けてこの歌を男へ贈る女。恨みがましさは感じられず、自らの心を丁寧に整理して「綺麗な別れ」を受け入れ、最後に相手へこの歌を贈ったのだとしたら、男に「あぁ、あの人は私のことを思ってくれていた良い女だったなぁ」と思わせる事に成功していて、女の方が実は一枚上手。引き際の駆け引きも鮮やかですね。

    • 山川 信一 より:

      『古今和歌集』の編集は、歌集を物語としても読めるように編集されていますね。想像力を刺激されます。それが創造に繋がります。すいわさんの鑑賞もその一つですね。女の思いがよくわかります。
      恋は始めることも難しいのですが、終わらせることはもっと難しい。この一連の歌々は、終わらせ方の手本を示しているようです。

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