《別れの言い訳》

題しらす よみ人しらす

うつせみのよのひとことのしけけれはわすれぬもののかれぬへらなり(716)

空蝉の世の人言の繁ければ忘れぬものの離れぬべらなり

「題知らず 詠み人知らず
儚い世間の噂が多いから、あなたを忘れないのに離れてしまいそうだ。」

「空蝉の」は、「世」に掛かる枕詞。「(繁けれ)ば」は、接続助詞で原因理由を表す。」(忘れ)ぬものの」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。「ものの」は、接続助詞で逆接を表す。「(離れ)ぬべらなり」の「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「べらなり」は、状態の推量の助動詞「べらなり」の終止形。
儚い現世は人の噂が多いもの。私は、噂の多さに耐えきれなくなっています。ですから、決してあなたのことを忘れたわけではないのに、足が遠退いてしまいそうです。
作者は、恋人から足が遠退いている。その言い訳として噂が多いことを挙げる。これを言うことで、相手の反応をうかがっている。別れを仄めかすためである。なるべく後腐れなく別れたいのである。
ここからの歌は、恋の次の段階を扱う。つまり、別れである。別れることも恋のうちである。では、どう別れを切り出すか。いかに嫌な思いをしないで別れられるか。腕の見せ所である。噂に負けたことにすれば、相手もそれほど傷つかないで済む。作者はそう考えたのだろう。ただし、ここから、相手の気持ちも既に冷めていることが伺われる。こんな見え透いた言い訳が通用する場面もある。「ば・・・ものの・・・べらなり」に作者の屁理屈がよく表れている。何と言えばいいかは、ケースバイケースである。編集者は、状況や心情をよく表してる点を評価したのだろう。

コメント

  1. まりりん より:

    空蝉 で、既に恋人から心が離れてしまったことが連想されます。別れを切り出すのは嫌な役回りですね。お互いの心が離れてしまっていれば、出来ることならこの悪役はしたくないかな…でもプライドが高い人は、自分が振った事にしたいかも。この作者は後者? 上手い言い訳を探している様子が目に浮かびます。

    • 山川 信一 より:

      俗に「男は別れ方を知らない。女は別れる時期を知らない。」と言います。いずれにしても、別れることは難しい。確かに、別れを切り出すのは嫌な役回りですね。でも、自分が始めたことには、自分で決着を付けねばなりませんね。

  2. すいわ より:

    歌を受け取った相手は冒頭の「うつせみの」で満たされていたはずの詠み手の心が空っぽになっている事に気付くことでしょう。もう予感はしていて確信になったのかもしれません。「貴女を忘れるはずはないんだ、でもね、口さがない人達の騒がしい声のせいで、どうにもそちらへ行くに行けないのだよ」、こんな事を言うのは女への思いやりなのだろうけれど、他者のせいにして悪者になる事を回避しているように見えなくもない。別れを匂わせながら気を持たせるような曖昧な言い回しも勿体ぶっているようにさえ聞こえてくる。と、全くの外側の者からそう見えるのだから二人の関係は終わっているのでしょうね。

    • 山川 信一 より:

      「うつせみ」に関しては、まりりんさんと同様の解釈ですね。「うつせみ」は、元々は、現実に肉体を持った身という意味でした。それが「空蝉」と表記されてから、脱け殻・空っぽの意味に取られるようになりました。ここもその意味が込められていますね。いずれにしても、別れをどう切り出すかに苦慮している様子がうかがえます。

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