題しらす そせいほうし
いまこむといひしはかりになかつきのありあけのつきをまちいてつるかな (691)
今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな
「題知らず 素性法師
あなたが直ぐ行くよと言ったばかりに、私は九月の有明の月を待ち、出してしまったことだなあ。」
「(来)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。「(言ひ)しばかり」の「し」は、過去の助動詞「き」の連体形。「ばかり」は、副助詞で限定を表す。「つる」は、意志的完了の助動詞「つ」の連体形。「かな」は、終助詞で詠嘆を表す。
あなたは直ぐに行くとおしゃってくださいました。私はそのお言葉を真に受けて信じたばかりに、来る夜も来る夜も待ち続け、とうとう「晩秋の夜明けの月を私が出してしまったなあ」と思えるほどお待ちしてしまいました。
作者は、自分がどれほど相手の言葉を信じていたか、どれほど長い間待っていたかを言うことで、自分の誠実を訴えつつ、相手の不誠実に反省を促している。
この歌は、作者の素性法師が男を待つ女の身になって作った歌である。前の歌に対抗するように配置されている。「一晩ぐらいで嘆いているのはまだまだだ。こちらは何ヶ月も待たされているのだ。」と言うのである。助動詞の使い方が見事である。まず「む」で未来を表す。次に「し」で過去を表す。そして、「つる」で意志的完了を表す。男の未来への不誠実な言葉が過去にあり、とうとうこんな現在を自分で作り出してしまったと言うのである。
コメント
今日こそはきっと、あぁ、今宵も貴方は来ない、、あなたの「すぐに行くよ」という言葉を信じて待つうちに秋の夜長の有明の月の頃になってしまいました、、
百人一首に取られていますね。待ちぼうけをくらって夜が明けてしまった、という歌だと思っていたのですが「まちいてつるかな」がよく分からないでいました。一夜だけでなく毎晩待った挙句、男を迎えるどころか、逢瀬を終え「毎夜毎夜逢った月」を送り出す時間にまでなってしまった、という事だったのですね。何だかすっきりしました。
長月(つまり、晩秋)は、「長」い日「月」の意も兼ねているのでしょう。男の言葉を信じたばかりに、とうとう晩秋の男を送り出すはずの時刻になってしまったということです。意志的完了の助動詞「つる」が利いていますね。「でも、これは、自分の意志でしでかしたことなのだ」という諦めのような自嘲のような思いが感じられます。
信じて待った私が愚かだったのか、ただ待ち侘びるだけだったことがこの事態を招いたのか、と自分に問うている感じがします。相手を責めてはいないけれど前の歌の方が可愛げは感じられますね。この歌を貰って「行かなくては!」とはならなそう。歌としての工夫はされているけれど女の実感ではないという事でしょうか。
あと、有明の月、満月を過ぎないと成立しませんから、ちゃんと「十六夜」でつながるのですね。編集の皆さん、流石です。
男が想像した女の気持ちですから、微妙なずれがあるのでしょうね。女ならこうは歌わないというご感想はもっともです。ただ、この歌の誇張表現はどこかユーモラスですよね。相手が言い返す余地を与えているようです。
「長月」は9月ですが、文字から長く待たされていることが連想されます。でも自分の意思でしたことで、相手を責めてはいない。この女性は、この先も待ち続けるだろう。素性法師は、そんなつもりで詠んだかと思いました。
長月は、九月と長い月日を掛けているのでしょう。「つる」による誇張表現には、ユーモラスな感じさえします。「あなたはひどい人です。こなに待っちゃったんですからね!」と拗ねてみせた感じでしょうか。