《恨み節》

題しらす よみ人しらす

きみやこむわれやゆかむのいさよひにまきのいたともささすねにけり (690)

君や来む我や行かむのいさよひに眞木の板戸もささず寝にけり

「題知らず 詠み人知らず
君が来るのだろうか、私が行こうかというためらいのために眞木の板戸も閉めず寝てしまったことだなあ。」

「君や来む」「我や行かむ」の「や」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「む」は、推量の助動詞「む」の連体形。「(ささ)ず」は、打消の助動詞「ず」の連用形。「(寝)にけり」の「に」は、完了の助動詞「ぬ」の連用形。「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形。
今日は陰暦の十六日。夜空には十六夜の月が出ています。こんな夜は、あなたに逢いたい気持ちが一層募ります。きっと、あなたも同じはず。あなたが来るだろうか、それとも、私が行こうかとためらってしまいます。だって、行き違いになったら、困りますもの。そこで、あなたを待つことにして、眞木の板戸も閉めないで寝てしまいました。それなのに、あなたは来てくださらなかったのですね。同じ思いではなかったことに気づき心を傷めています。それとも、あなたも同様にためらったのですか?こんなことなら、私が訪ねればよかった。そうすれば、傷つくこともなかったでしょうから。
作者は、嫌味にならないように恨み言を述べつつ、相手が自然に反省するように促している。
この歌は、相手への恨みごとを直接言い表すことなく、巧みに言外に隠している。そのために、次の工夫がなされている。「君や来む我や行かむ」の対句を用い、相手を引き込む。「いさよひ」に〈ためらう心〉と〈十六夜の月〉を掛けて、情緒と情景を融合する。「眞木の板戸もささず」と具体的に述べて現実味を増す。「にけり」によって後悔を表す。編集者は、こうした点を評価したのだろう。

コメント

  1. すいわ より:

    満月ではない、十六夜。物思わしげにほんの少し首を傾げて遅れて昇る月。
    待っていたのですよね。女が直接出向くことはない。男に逢うのは夢の中なのだから板戸を開けておく必要はないのに待つか行くか迷っている間にうっかり眠ってしまった、と言う。いじらしさを感じずにはいられないでしょう。十六夜の月のように、ほんの僅かの心掛けの欠けのせいですれ違ってしまったらどうしよう、、。私の心(まきの板戸)はいつでも貴方に開いております、と会いに来なかった男を直接非難することなくさりげなく動線を引いているところが周到。

    • 山川 信一 より:

      十六夜の月に事寄せた鑑賞ですね。なるほど、満月ではありません。けれども、十分に丸い。作者の恨みもその程度のわずかなもの。十六夜の月は、それを象徴しているようでもあります。ちょっと拗ねてみせた感じでしょうか。

  2. まりりん より:

    この時代、逢いたくても女性は待っているしかなかったのかと思っていましたが、必ずしもそうではないのですね。すいわさんの「男に会うのは夢の中」にヒントを得て、、眞木の板戸は夢の入口。閉めずに開けておけば夢の中では逢いに行ける。すれ違うこともない。でも、結局16夜には会えなかったふたり。朝目が覚めて、落胆している様子が目に浮かびます。

    • 山川 信一 より:

      この時代は、必ずしも女は男を待っているしかない訳でもなさそうです。一応そういうルールになっているということでしょう。ルールを作るのは破る楽しみがあるからです。女だって時に逢いに行ったのではないでしょうか。夢の中と限定することもなさそうです。

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