題しらす ふちはらのたたゆき
きみといへはみまれみすまれふしのねのめつらしけなくもゆるわかこひ (680)
君と言へば見まれ見ずまれ富士の嶺の珍しげもなく燃ゆる我が恋
「題知らず 藤原忠之
君と言えば逢っていようが逢わないでいようが、珍しくもなく燃える私の恋である。」
「(言へ)ば」は、接続助詞で軽い仮定条件を表す。「見まれ見ずまれ」は、「見もあれ見ずもあれ」の短縮形。「富士の嶺の」は「珍しげもなく燃ゆる」の枕詞。
あなたをたとえるなら何と言ったらいいでしょうか。お逢いしてもお逢いしていなくても私のあなたへの恋心は変わりません。そうだ、富士山の頂から絶えず吐き出している煙にたとえましょう。その煙のように常に変わらずあなたに靡いています。
当時、富士山は活動中で絶えず煙を吐いていた。相手は、たとえそれを見たことはなくても、知識としては知っているはずである。そこで、自分の恋心は、富士山の煙と同じくらい気高く変わることがないと印象づけたのである。
「君と言へば」は字余りだが、「と」の母音の「O」と次の「言(へば)」の「I」音が融合して、「E」音になった。したがって、「きみてへは」と書くこともできた。「見まれ見ずまれ」は「見もあれ見ずもあれ」の「もあれ」の「も」の母音「O」と次の「あ(れ)」の「A」音が「A」音に統一された。日本語は、子音+母音が基本なので、こういう母音融合が起きる。これは、限られた字数で歌の中に多くの内容を盛り込もうとするためになされた。一方、「富士の嶺の珍しげもなく燃ゆる」では、「富士の嶺(の煙)」を「珍しげもなく」と言う意外性により読み手の心を惹き付けている。編集者は、こうした表現の工夫を評価したのだろう。
コメント
「富士の嶺の珍しげもなく」は枕詞でも、歌の中できちんと意味の筋が通っていますね。「富士の嶺」で気高さを感じます。自分の気持ちを富士山が絶えず吐き出している煙に例えるなら、永遠の愛を誓っているのでしょうか。
恋四になってから、激しい気持ちを訴える歌が多いですね。
「『富士の嶺の珍しげもなく』は枕詞でも」という表現は、正確ではありません。これでは、「富士の嶺の珍しげもなく」全体が枕詞になってしまいます。枕詞は五音なので、「富士の嶺の」だけです。正しくは、「『富士の嶺の』(珍しげもなく)」と枕詞を使った表現は」です。
「恋四になってから、激しい激しい気持ちを訴える歌が多い」のは、恋は逢ってから一層激しくなるからでしょう。
富士のお山は人が見ていようと見ていなかろうと、あのように当たり前に燃え続けている。私の恋心も君を思えばこそ、あの崇高な富士の如く激しく、貴女に逢えても逢えなくても幾久しく燃え続けるのだ、そう、どんな時でも。
富士の山のように崇高な「君」かと思ったら自身の姿なのですね。変わることなく思い続けている。「みまれみすまれ」、でも逢いたいから泰然とした姿でありながら燃えている事をアピールするのですね。
富士の嶺の崇高さは、まずは自分の恋心について言っています。けれど、それはその恋心を捧げるにふさわしい「君」の崇高さも暗示していますね。