題しらす よみ人しらす
しののめのほからほからとあけゆけはおのかきぬきぬなるそかなしき (637)
東雲のほがらほがらと明けゆけば己が後朝なるぞ悲しき
「題知らず 詠み人知らず
東雲が朗々と明けゆくと、私の着物であるのが悲しい。」
「ほがらほがらと」は、副詞。「(明けゆけ)ば」の已然形。「ば」は、接続助詞で偶然的条件を表す。「(後朝)なるぞ」の「なる」は、断定の助動詞「なり」の連体形。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「悲しき」は、形容詞の連体形。
空がわずかに白み始め、ついにお別れの時間になってしまいました。夜が私たちの気持ちも知らずに何とも晴れやかに明けていきます。恨めしくなります。重ねて掛けていた二人の着物もそれぞれに身に着けねばなりません。当然自分の着物を身に着けるのですが、その当たり前が何と悲しいことでしょう。
夜明けの別れに際して、恋人に今の思いを伝えている。そうすることで、恋人の心を思いやりつつ、別れの辛さを共にしみじみと味わおうとしている。この歌を贈ることによって、恋はいっそう味わい深いものになった。恋はその過程のすべてを味わうものである。
前の歌から時間が少し進んでいる。共寝を終えて別れる段階に来ている。「ほがらほがらと」の「ほがら」は、「ほがらか」の「ほがら」であるが、重ねて使うことでオノマトペのような印象を受ける。人の気も知らないで夜が晴れやかに明けていく様が強調される。しかも、再び自分の着物を身に着ける悲しさに注目している。編集者は、この場面に焦点を当て、その心理を捉えた点を評価したのだろう。
コメント
「あけゆけば」、「あけぬれば」ではないのですね。別れの時間は目の前、まだ微睡の中にいたい、別れの時間をあちらは押しやりたい。でもその時へ否応もなく押し流されてしまう。そんな私の気持ちなど汲むこともなく、うらうらと夜が明けて行く。繰り返される音が時間の動きを感じさせます。
確かにここは、「明けぬれば」ではなく、「明けゆけば」なのですね。ほんのかすかに白み始めた東の空が次第に明るさを増していくその情景を描いたのですね。「ゆけば」は、その時間の流れを表しています。そして、心もそれに合わせて変化していきます。「け」の繰り返しが効果的ですね。
後朝の時が近付いてくる。恋する前の私だったら刻々と彩られる東雲を見て、「今日の重ねは何にして纏おうかしら?」なんて無邪気に思っていたかもしれない。あぁ、なんて悲しいこと、ひとつに重ねた衣をまるで心を裂くかのように分ち、お別れの時を迎えねばならない。そんな思いを知ってか知らずか、晴々と明けて行く空の、何と無情なこと、、。女が詠んだとしたらこんな感じでしょうか。
後朝の別れには、男は男の女の思いがあるでしょう。それでも、東雲の空が恨めしいことと、自分の衣を纏うことが辛いのは同じです。共にこの辛さを味わうのも恋なのですね。
音が面白いですね。「ほがらほがら」や「きぬぎぬ」など、重ねて使って肩の力が抜けた感じがします。
自分の着物を着るのは当たり前なのに、その「当たり前」が悲しいと。恋は非日常ですものね。
朗々と明けてゆく朝も、逢瀬の後にはいかがかな。やはりここは、しとしと降る雨が似合いますよね?
「しののめのほからほからとあけゆけはおのかきぬきぬなるそかなしき」は、同語の反復「ほがらほがら」「きぬぎぬ」だけでなく、同音の繰り返しが多いですね。「の」が5回、「が」が3回(仮名なら「か」が4回)、「き」が3回出て来ます。これは明らかに調べを意識した結果です。歌は調べも大事ですね。
天気はその時の心持ちでいかようにも感じられるものです。この時は夜明けを素直に喜べない状況でしたね。ただ、「しとしと降る雨」が似合っても、それを望む訳ではありませんね。やけになって、いっそのことならと思うかも知れませんが・・・。それでも、その中で帰らなくてはならないのですから。