題しらす みつね
なつむしをなにかいひけむこころからわれもおもひにもえぬへらなり (600)
夏虫を何か言ひけむ心から我も思ひに燃えぬべらなり
「題知らず 躬恒
夏虫を何と言ったのだろうか。私も思いに燃えてしまいそうだ。」
「(何)か」は、係助詞で疑問を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(言ひ)けむ}は、過去推量の助動詞「けむ」の連体形。「思ひ」の「ひ」に「火」が掛かっている。「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形。「べらなり」は、推量の助動詞「べらなり」の終止形。
私は以前「飛んで火に入る夏の虫はなんと愚かなことか」などと、夏虫のことをとやかく言っていたのだろうか。今にして思えば、私も夏虫と同じではないか。心から望んで、私も恋の火に燃えてしまうに違いないようだ。この身を滅ぼすことがわかっているのに、愚かにも、この恋心を抑えることができないでいるのだから。
誰もが目にし、愚かだと思っている夏虫の習性。これに今の自分をなぞらえている。己の身を滅ぼすことがわかっているのに恋せずにいられない、そんな自分を愚かだと思ってもどうすることもできない、もう夏虫を軽蔑できないと言うのだ。それによって、自分が如何にこの恋に夢中なのか、のめり込んでいるかを相手に訴えている。
この歌は「夏虫(の習性)」という題材を用いた大胆な発想よって、従来の歌の概念を打ち破ろうとしている。躬恒の歌は『古今和歌集』の歌の中で最も発想が斬新である。この歌にも新しい歌の表現を生み出そうという意欲が溢れている。編集者はその姿勢を評価したのだろう。それは、たとえば、次に出て来る忠岑の歌と比較するとよくわかる。反面、優雅な調べが犠牲になっている。
コメント
愚かと思われがちな夏虫を自分に重ねている。そして暗に、恋する者は愚かと分かっている事もしてしまう、と言っているように思えます。
躬恒は、ありきたりでは駄目と、常に新しい表現の方法を模索していたのでしょうね。
理性ではコントロールできない恋というものの本質を言っているのでしょう。理性でコントロールできないからこそ恋と言えるのです。
当事者になって初めて理屈では片付けられない、理性では制御できない感情があるのだという気付き。まさか自分があの愚かな夏虫のように自ら身を焦がす火(思い)に飛び込むとは思いも寄らなかった、と。着眼点が確かに斬新ですね。贈答歌としては先生の仰る通り、相手への思いより自分の内に起こった発見に重きが置かれている印象で華が無い。「贈り物」としては少し足らなさを感じますね。
歌は何のために作るのかという本質的な課題を感じますね。少なくとも共感者を求めたいという願いは込められているはずです。実際、この歌に共感する者は多いでしょう。ただし、恋の相手がそうかどうかはわかりませんね。