寛平御時きさいの宮の歌合のうた 藤原おきかせ
わひぬれはしひてわすれむとおもへともゆめといふものそひとたのめなる (569)
侘びぬれば強ひて忘れむと思へども夢といふ物ぞ人頼めなる
「寛平御時の后の宮の歌合の歌 藤原興風
つらくなるので強いて忘れようとするけれど、夢というものが頼りに思わせるのだ。」
「(侘び)ぬれば」の「ぬれ」は、完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ば」は接続助詞で原因理由を表す。「(忘れ)む」は、意志の助動詞「む」の終止形。「(思へ)ども」は、接続助詞で逆接を表す。「(物)ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「(頼め)なる」は、断定の助動詞「なり」の連体形。
恋があまりにも苦しくて弱り切っているので、あなたのことを無理に忘れようとしています。それなのに、あなたが夢に出てきて、これなら逢えるのではないかとあてにさせるのです。あなたは私を思ってくださっているのですね。
当時は、夢に見えるのは、その人がこちらを思っているからだという迷信があった。作者はその迷信を頼りに、自分が忘れようとしているのに、相手が忘れさせてくれないと訴える。夢に出て来るという事実があるのだから、あなたは私を思っているのだ。だから、逢ってくれてもいいのではないかと迫る。
詠み手がどこまでこの迷信を信じているかはわからない。しかし、使えるものは何でも使って相手を口説こうとしていることはわかる。この無茶ぶりも若者らしい。編集者は、その若者らしさがよく表れている点を評価したのだろう。
コメント
夢というものはなんと罪深い。現実では振り向いてもらえない恋の苦しさにあなたを忘れようとしているのに、夢ではあなたから逢いに来てくれるなんて、、。理性と感情。制御出来るものと出来ないもの。表向き情に訴えて口説いているように見えますが、例えば相手がこちらの感情に全く気付いていないとしたら、この歌を贈るという現実、振り向いてもらえるきっかけを作る中々の策士だなぁと思いました。続く「若さを装っての歌」、現実に恋に悩む若人の手引書になりそうですね。
恋は一面ゲームでもあります。落とした方が勝ち。では相手は、落とされたら負けかと言えばそうでもありません。如何に上手に落とされるかが勝敗を決めます。この歌を読むと、その駆け引きのほどが想像されます。確かにこの人は「なかなかの策士」ですね。
逢えないことに苦しみながらも、相手が自分を思ってくれている事を期待しているのですよね。前向きなところが若者らしいし、前の歌のように生き死にを言われるより私はずっと好感を持てます。
当時の女にとって、恋は人生を決めるゲームでもあったはず。だから、表現の裏の裏を読んだことでしょう。現代人とは、受け止め方が違っていたように思います。まりりんさんの受け止め方は極めて現代的であっさりしていますね。受け止め方にも自ずから人生が表れます。