寛平御時きさいの宮の歌合のうた 藤原おきかせ
きみこふるなみたのとこにみちぬれはみをつくしとそわれはなりぬる (567)
君恋ふる涙の床に満ちぬればみをつくしとぞ我はなりぬる
「寛平御時の后の宮の歌合の歌 藤原興風
君を恋う涙が床に満ちてしまったので、澪標に私はなってしまった。」
「(満ち)ぬれば」の「ぬれ」は、完了の助動詞「ぬ」の已然形。「ば」は、接続助詞で原因理由を表す。「みをつくし」は、「澪標」と「身を尽くし」の掛詞。「ぞ」は、係助詞で強調を表し係り結びとして働き文末を連体形にする。「ぬる」は、完了の助動詞「ぬ」の連体形。
あなたのことを恋しく思って流す涙が床に落ちて涙の海になってしまったので、この身を尽くしてあなたを恋う私は、澪標のようにその海に浮いてしまいました。
誇張表現である。それに託して、自分がいかに相手を恋しく思っているかを伝えている。誇張表現は、中途半端ではない方がいい。相手がそれを事実だとは思わないくらいにおよそ有り得ないことを言った方がいい。大事なことは、思いが伝わるかどうかである。ただし、表現の成功不成功は、ひとえに相手に掛かっている。表現自体に成功不成功の決め手は無い。その意味で表現は冒険に似ている。したがって、この表現が成功する確証はどこにも無い。
考えてみれば、言葉は何であれ、いかに写実的に表現したとしても事実そのものではない。その意味ではあらゆる言葉は偽りである。言わば、偽りを通して真実を伝えるのが言葉である。誇張表現は最も言葉らしい言葉である。ならば、むしろ初めからこれは偽りだとわかるように表現した方が誠実である。事実のふりをした言葉の方が人を騙すことになりかねないから不誠実である。誇張表現は最も言葉らしい言葉である。
編集者は、この誇張表現の大胆さを評価したのだろう。
コメント
滑稽なまでに誇張された表現、ふっと笑いを誘うせいか、566番の歌と比べると、こちらの方が好意的に受け止められそう。全くとんでもない例えだと思いながら、気持ちの深さは伝わる。君のために流した涙の海に溺れる、恋に溺れる。三十一文字、少ない言の葉でありったけを伝えるにはこれだけ大きく言わないと。
この歌は、誇張表現とはどうあるべきかのお手本のようです。事実と思わせて相手を騙す言葉は嘘と呼ばれます。しかし、初めから事実ではないと思える言葉はもはや嘘ではありません。誇張表現は、言葉と事実を混同しがちな、時に、同一視しがちな現実への皮肉でもありそうです。
確かに大袈裟ですね。このくらい開き直っていると清々しさを感じますが、わざとらしい、と思う人もいるでしょうね。
因みに私ごとで恐縮ですが、私の父はこのような誇張表現で母にお世辞を言う人です。そして母はわざとらしいと表向きは嫌がっています。
その表現がどう受け取られるかは、誰が誰にどんな状況で成されるかによって決まります。それで、お父様の場合、誇張表現が成功しているのではないでしょうか。お母様が本当に嫌がっていたら、お父様はそんな表現をしません。お母様の態度は照れ隠しのような気がします。娘の手前、気持ちをそのまま出すわけにはいきませんから。